早稲田大学現代文学会 公式サイト

「更新情報」よりまとまった情報をご覧いただけます。

Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その3

編集の佐藤です。ついにLibreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」の入稿が完了しました!

書影はこちら!

f:id:genbun_e515:20141118011235p:plain

 

真っ赤かです!

ちなみに、Bartlebyについての特集ではありません。あくまでも、“I would prefer not to”(できればしたくないのですが、しないほうがいいのですが)といった感じの作品を集めました。詳細はこちら!

 

サイズはB5版60頁6作品が掲載され、写真挿入2枚マットコート紙装丁(!)写真栞封入という豪華な内容となっております! Libreriは普段800円前後で売っておりますが、今回なんとたったの500円! 通常より300円安くなっております。

また、今回なんとあの伝説のLibreri21号「特集ー犬と猫」が帰ってきました!しかも、誤植訂正はもちろんのこと、判型をより大きくて見やすいB5版へと変え、デザインを変更、装丁も新たにマットコート紙へと変更、さらにはより多くの方に読んでいただくために前回よりも安く750円にて販売いたします。

f:id:genbun_e515:20141118013829p:plain

前回のLibreri21号の詳しい内容はこちら! □目次 □浜野喬士インタビュー

浜野喬士先生のインタビューは大変な人気を博した伝説的なものとなっており、Libreri21号は販売開始3時間で売り切れてしまった伝説の雑誌となっております。もう二度と再版する予定はないのでこれを機会にぜひどうぞ!

さらに!!セットで買っていただいた方には1200円で販売します!!!

また、例年通り、売り切りタイムセールもやっているので「文フリにあまりいられないかも」という方もこの機にぜひお願いします!

それでは会員一同、ブース:キ-18でみなさまを心待ちにしております!

第十九回文学フリマ参加ブースのお知らせ

すっかり公表が遅れてしまいました。当サークルのブースはキ–18です。2Fとなっておりますのでよろしくお願いします。

 

発行するLibreri22号についてはこちら⬇


Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その2 - 早稲田大学現代文学会公式サイト(部室は学生会館E515)

Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その2

みなさんご機嫌いかがですか?

予想以上に際どい原稿がたくさん集まって編集委員もわくわくして参りました。いよいよ原稿タイトルがすべて出揃ったので、文学フリマ当日に向けて掲載作品内容を紹介していきたいと思います。

 

ABOUT BARTLEBY : レポート

通常の英語では用いられない表現である‘I would prefer not to’という言葉を思想界に流行させた19世紀短編小説の傑作の一つであるBartleby, the scrivener: A story of the Bartleby(「代書人バートルビー ―ウォール街の物語」)に関する紹介記事。あらすじはもちろん、その成立過程や登場人物たちと作者メルヴィルの周囲との相応関係に言及する記事を紹介し、アメリカとフランスにおける簡単なバートルビー研究史をまとめる。これさえ読めば「代書人バートルビー」がもっと好きになります!

I AM GUNDAM  : エッセイ

「こんなエッセイできれば書きたくなかったのですが」(“I would prefer not to write such an essay”)と冒頭に走り書きされた精神分析ジャック・ラカン×ガンダム00のアニメ批評風エッセイ。主人公刹那が作中口走る「俺がガンダムだ」という台詞にラカンによるキルケゴール分析をオーバーラップさせることで導き出される「別の形の愛」について述べる。筆者曰く、「ガンダム00を見た我々は既に神の愛の何たるかを知っているのだ」。

NO FUTURE——WHY IS THERE NO FUTURE RATHER THAN NOTHING?             :書簡対談

Lee Edelman. No future : Queer Theory and the Death Driveを読んだ男からそれを薦めた人物への手紙と、その応答。その応答では、クィア・セオリーやクィア・スタディーズと呼ばれるある学問領域の混迷とした状況に戸惑いつつ言説が整理されていく。ジェンダー・スタディーズやクィアに興味がある人は必見! また、ペシミスティックに綴られた二人の「未来のなさ」への対決も注目。

LA MUSIQUE SAVANTE MANQUE À NOTRE DÉSIR                       :エッセイ

フォーク・ジャンボリー、そこには淡い青春があった。金はあるが毎朝を起きる時に何をすればいいのか分からない無気力で人を遠ざけがちな「僕」は数少ない友人の牧野からフォーク・ジャンボリーなるフォーク・ミュージックのイベントがあることを知らされる。そこで出会った広恵と「僕」は――。ゼロ年代的文体で1969-71年に3回行われたフォーク・ジャンボリーの伝説を回想する真実の偽史に青春は存在するのか? その目で確かめろ!

FOOTPRINTS : 小説

さる動物園にいる象、はな子。はな子に魅入られた「私」は日に日にはな子の妄想が行き過ぎるようになり、仕事をやめ、妻との関係が悪化していく。そんな時に「私」が決意したこととは……? 大正期文学を思わせる文体で綴られる一人の狂気が濡れきった死を艶やかに染め上げる。

KILL, DEATH, ASSIST : エッセイ

FPSにおける生死は全て数字の問題に回収される。殺せば数字になるし、殺されても数字になる」。筆者のFPSプレイで体験した四つのエピソードを収録。キャンパー狩り、グリッチャー討伐、ただキルレシオだけが上昇していく掃討戦。そして、すべてのFPS的行為を透徹な目線で貫く渇ききった文章がFPSの真実を暴き出す。本当の「ファントムバレット」を知りたければこれを読め!

 

いかがでしょうか?1つでもビビっときたものがあれば、ぜひ文学フリマ2F会場のブース:キ-18でお会いしましょう!

 

 

第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」報告

こんにちは。第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」は盛況のうちに終わりました。おこしになったみなさま、ありがとうございました。

また、以下に各発表の要旨を記載しますのでどうぞご笑覧ください。

 

◯喜田「たくまざる誘い——異種混淆性、石原慎太郎、ウタ」

石原慎太郎のそもそもアンソロジーである和漢朗詠集をさらにアンソロジーにするという滑稽な振る舞いをその滑稽さを意識せず行っているかのように行われることを論じた。滑稽さを意識していると思われないのは『新和漢朗詠集――現代に息づく日本人の鼓動』の「鼓動」に「ビート」というルビが振られていることにある。日本人の伝統文化の紹介をするにも関わらずあえて英語をする理由が同著を読んでも理解できないし、そもそも解説で紹介されている抜粋の数と実際の抜粋の数がズレているなど本としてのクオリティにも問題がある。これを次のような考察を挟むことで分析した。まず、異化作用とピーター・ブルックの言う茶化し(mokery)を参照にし、mokeryがカルチュラル・スタディーズでも注目されていることを示しつつ、そこにある均質性への批判の定型がもはや批判的効果が失効していることを示した。次に、均質性批判はある二項対立(独自性/均質性など)を一つの価値基準に回収させてしまう弱点があるが、それは石原慎太郎の「拙さ」によって別の分析の仕方がありえるのではないのかと示した。

 
◯佐藤「誰も詩を読まないーー井坂洋子について」
井坂洋子の詩集は『朝礼』(1979)と『地に落ちれば済む』(1991)の間に描写の対象が生(若さ)から死(老い)へと移って行ったとして論じる元来主調だった批評に対して、テマティスム的読解によってそもそも井坂洋子は水と肉体を換喩的に接続していくスタイルが根本にあり、切断することと孤独を描いていることが問題であると新たな解釈を示した(また、20世紀以後にそういう読解が可能になった詩の批評史にも簡単に触れた)。さらには、日本では「文学といえば?」という問いに対してほとんどの場合において詩人の名前が挙らないことを先行研究の少なさや参加者への問いかけを通じて示した。最後に日本では「文学」はいつから詩が消えたのか、そもそも詩は存在したのか、しえなかったとすれば一体われわれが今読んでいる詩と呼ばれるものは一体なんなのかなどといった研究テーマが残っていると示唆した。
 
◯片岡「正しく=よく聴かなければならないーー日本フォークのコンサート」
アメリカのフォークソングはとりわけカレッジ・フォークという形で日本に受容された。最初期のフォークソングは「立教大学といった小洒落た大学生」が弾くものであり、元来の意味付けを失ったまま登場したのだ。しかし、「我らの歌」(Folk Song)としてのフォークソングは関西の高石友也が自らフォークソングを翻訳して独自のものとしようとする運動を通じてしだいにその語本来の在り方になっていった。フォークソングはその当時、演奏者と観客の区別のなさが顕在化していた。つまり、観客は演奏者に対して「我らの歌」を求めることが当たり前だったのだ。実際、例えば岡林信康の初期の曲にある労働者の現実を歌った曲がフォークソングにおいて価値のあるものとされていた。その後、第3回フォーク・ジャンボリーの観客の暴徒化、朝6時までの討論会という失敗によってフォークブームは一端沈静化した。ここで画期となったのは70代以降フォークの完全なる商業主義化に伴う吉田拓郎の台頭である。彼はかぐや姫との共同コンサート「吉田拓郎かぐや姫 コンサートインつま恋」によって数万人規模の動員を成功させた。このコンサートはオールナイトというジャンボリー的歴史を引き継いでおり、ニューミュージック中心史観において軽んじられているが、フォーク史においてはその過去を再演しつつ別の形で表せたものとして評価すべきであると論じた。
 
◯山田「遊ぶ言葉ーーMCバトルという文化」
MCバトルというフリースタイルラップにおけるバトルの形式を紹介し、日本におけるMCバトル史を簡単に紹介した。次に、真代屋秀晃『韻が織り成す召喚魔法』と森田季節『ウタカイ』を紹介しながら言葉遊びの文化史をホイジンガやカイヨワを使って紹介し、その系譜に二冊のテーマを位置づけた。その後、そういった言葉遊びの本質には「パラドクス」という要素があることをロザリー・L・コリー、ウィリアウム・ウィルフォード、エウヘニオ・ドールスなどを用いて示し、遊び文化におけるパラドクスの重要性を解説した。また、ある遊びの中に出現する絶対的な秩序や遊びに見られる様々なパラドクスが取り上げた二冊に現れていることを示した。最後にはそういった遊びとパラドクスこそが革命的なものへと至る道筋を照らすとしてヒップホップ文化と革命が本来深くつながっていることを論じた。 
 
以上です。
第4回もお楽しみに。

Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その1

幹事長の佐藤です。今回は文学フリマ当日まで少しずつ情報を公開していきたいと思います。

さっそくですが、体裁が変わりました。大きさは今までA5判サイズでしたが、今回はB5判サイズです。また、いわゆるくるみ製本ではなく、LIFENEW YORK TIMESといった雑誌のような形になります。

また、すでに掲載されることとなった作品・論考のタイトルだけここに公開しておこうと思います。どれが論考でどれがエッセイ・小説・詩かぜひ予想してみてください!

・KILL, DEATH, ASSIST

・FOOTPRINTS

・NO FUTURE——WHY IS THERE NO FUTURE RATHER THAN NOTHING?

・ABOUT BARTLEBY

・I AM GUNDAM

・LA MUSIQUE SAVANTE MANQUE À NOTRE DÉSIR

 

それでは報告その2をお楽しみに!

続報!第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」開催のお知らせ(後期新歓活動)

こんにちは。

この度、以前告知させていただいたシンポジウム「ものみなウタではじまる?」の詳細な日程が決定しましたのでお知らせいたします。
本シンポジウムは、詳細は以前の記事を読んでいただければと思いますが、簡単に言うと何名かの現代文学会員が「ウタ」にちなんだ発表を行うというものです。
各自自らの専門というよりは「好きな」分野での発表となると思いますので、お気軽にご参加いただけると思います。
当日は以下のように進行いたします。

10月18日(土) 会場:学生会館W503


15:00〜15:40 喜田(M1)「たくまざる誘い——異種混淆性、石原慎太郎、ウタ」
15:40〜16:20 佐藤(B3)「誰も詩を読まないーー井坂洋子について」
16:20〜16:30 休憩
16:30〜17:10 片岡(B2)「正しく=よく聴かなければならないーー日本フォークのコンサート」
17:10〜17:50 山田(M1)「遊ぶ言葉ーーMCバトルという文化」
17:50〜18:10 休憩
18:10〜 質疑応答

以上の通りです。
それでは、各発表の概要について紹介します。

・喜田(M1)「たくまざる誘い——異種混淆性、石原慎太郎、ウタ」
この発表では石原慎太郎とウタの関わりについて、様々な仕方で触れていきます。とりわけ昭和48(1973)年5月に刊行された石原の『新和漢朗詠集』に注目します。
この本の副題「現代に息づく日本人の鼓動[ルビ:ビート]」は示唆的です。というのも、日本の伝統文化なるものの称揚が、それをなし崩すもの——いわば「現代のビート」——と併存ないし混淆しているように見えるからです。この発表では、そうした事態に着目したいと思います。


・佐藤(B3)「誰も詩を読まないーー井坂洋子について」
昨今の日本の文学事情では三角みずき、最果タヒ、暁方ミセイといった詩人なしに恐らく詩の詩の字もない。彼女たちのスタイルの系譜を遡れば伊藤比呂美などいるのだろうが、あえて同時代の井坂洋子を選ぶのはなぜか。それはまず、彼女が伊藤とは違って『現代詩手帳』といった商業誌に投稿せずデビューした特殊な事情ゆえであり、二つ目にスキャンダラスなスタイルをとった伊藤とは全く別の方向にいたためであり、三つ目に彼女は同じテーマを反復し続けることが魅力となっているからである。この発表では詩の読解の仕方の歴史すなわち批評史に簡単に触れながら井坂洋子の換喩の体系を読み解く。最後に余力があればこの国における詩という文学形式について一考を投じる。

・片岡(B2)「正しく=よく聴かなければならないーー日本フォークのコンサート」
日本フォークの歴史を、60年代後半から70年代に行われた大規模コンサートの観点から紹介します。日本において、若者がギター一本で奏でるようなフォーク・ミュージックは、一つ娯楽としてのポピュラー・ミュージックであるだけでなく、あるいはそれ以上に、一つのムーブメント、あるいはアンガージュマンであることが期待されていました。そしてフォークのコンサートも、音楽を聴く場である以上に、一つのイベントとして求められていました。その事についてお話ししたいと思います。

・山田(M1)「遊ぶ言葉ーーMCバトルという文化」
HIPHOPという音楽ジャンルの一要素としてある「MCバトル」(フリースタイル・ラップ)の紹介を行います。そしてその紹介をしながら、「MCバトル」が深く何と繋がっている文化なのか、そしてそれがどのように拡散されているのか、という点に着目し、一つの文化(これはMCバトルに限らず)を見る視点として「遊び」というものを提示してみたいと思います。MCバトルないしフリースタイル・ラップが「ただの言葉遊びに過ぎない」と言われるのは、むしろポジティブな事態なのではないでしょうか?


それでは当日はよろしくお願いします。

第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」開催のお知らせ(後期新歓活動)

シンポジウム開催のお知らせ

早稲田大学現代文学会恒例のシンポジウムが今年も開催されます。今までをまず振り返ると第1回では「十文字青『ぷりるん。~特殊相対性幸福論序説~』」と題して『ぷりるん。』をめぐるさまざまな発表を行い、第2回では「劇場版魔法少女まどか☆マギカ」と題してアニメについて物語読解からアニメ解釈まで様々な観点が与えられ、そして第3回がこの度行われる運びとなりました。題して「ものみなウタではじまる?」です。また、これは後期新歓活動の一つとして開催されますので早稲田大学現代文学会の様子を知りたい方はぜひおいでください。

シンポジウムの紹介

シンポジウムのタイトルは「ものみなウタではじまる?」となっております。これは花田清輝の戯曲「ものみな歌でおわる」(1963年)にちなんでいます。 

花田清輝と言えば「アヴァンギャルド芸術」などの旗印のもと、文学に限らず様々なメディア、ジャンルを越えて、というよりはそれらの複合を思考していた人物ですが、彼が「かぶき」の誕生に関しての考察を戯曲化したものがこれです。 
ということで、今回のシンポジウムでは様々なウタ(歌、詩、唱…)、そしてまたそれらに関する事象(ウタを題材にした小説、絵画、映画…)などを取り上げてみたいと思います。 今回シンポジウムでは、現時点で、日本のフォークについて、井坂洋子について、石原慎太郎について、HIPHOPについてなどの発表が行われる予定となっています。
それぞれ自らの本来の専門ではない領域での発表もあり、またそれぞれ異なる分野での発表をこのシンポジウムという場でともに行うことで、思いがけない出会いが発生し、「ウタ」のつながりも明らかになればこれ以上のことはないと思います。また、来場者の方にとっても聞きなれない分野の発表があることによって、新たな出会いがあることを望みます。真面目なことも書きましたが、それぞれ自分の好きなものについて発表していただけるはずで、それは楽しいものとなるでしょう。
ぜひ、気楽に、楽しむつもりでご来場いただければ幸いです。
開催は、冒頭書きました通り、10月中旬ごろを予定しております。それでは、さらに当日に近づいた頃の詳細なお知らせをお待ちください。

終わりに

というわけで10月の中旬に発表そのものがアバンギャルドな匂いのするシンポジウムが開かれることとなりました。文章のみが文学にあらず、といった体で行われることでしょう。よろしくお願いします。