早稲田大学現代文学会 公式サイト

「更新情報」よりまとまった情報をご覧いただけます。

2015年度新歓について

皆さんこんにちは! 

いよいよ新歓の準備も始まってきましたね! 新入生の皆さんはどこのサークルに入るか見当をつけ始めているかもしれません。

 

というわけで、げんぶんの新歓情報についてここでお知らせします

 

げんぶんメーリス

現代文学会のメーリングリストに参加することで、 最新の新歓情報をいつでも受け取ることができます。 参加は幹事長まで。 

新歓ブース

現代文学会は屋外のブースでの説明も予定しております。興味のある方は足をお運びください。
 
場所は早稲田キャンパス11号館前(ブース番号:156)です。日時は以下の通り。
 
4月1日(水)10:00~16:00
 
4月2日(木)10:00~16:00
 
4月3日(金)10:00~15:00

文芸サークル合同ブース

早稲田大学内の文芸系サークルがいくつか合同でブースを出します!
 
日時と会場は以下の通り。
 
4月2日(木)12:00~16:30 会場:学生会館W506

新歓勉強会・読書会の一覧

新歓で行われる勉強会は下記の通りとなっています。開催時刻はすべて14:45〜18:00、場所は部室(E515)となっています。詳しい概要はこちらをご覧ください。          
  • 4月    6 日 (月) 「シュルレアリスム入門ーーそれって文学?」 (佐藤)
  • 4 月 11 日 (土) 「政治哲学入門ーー英米倫理思想事始」 (平良)
  • 4 月 14 日 (火) 「精神分析入門ーー何のための精神分析か」 (片岡) 
  • 4 月 16 日 (木) 「小説創作入門ーーゲンブン・ライティング・スクール・リブート」 (佐藤)
  • 4 月 18 日 (土) 【読書会】円城塔『捧ぐ緑』を読む (佐藤)
  • 4 月 21 日 (火) 「ロゴセラピー入門ーー人生の意味を問う心理学」 (赤木)
  • 4 月 22 日 (水) 「小川洋子入門ーー二皿のあいまいな料理から」 (五十嵐)
  • 4 月 25 日 (水) 「なぜ人間関係は存在しないのか?ーーレオ・ベルサーニと後期ラカン」 (片岡、喜田)

第2回現代文学会芥川賞受賞作――小野正嗣「九年前の祈り」

第152回芥川賞候補作は次の通りであった。併記されている数字は採点結果である。(12点満点中 採点方式は◎3点、◯2点、△1点、×0点)

 
上田岳弘「惑星」・・・6点

小野正嗣「九年前の祈り」・・・9点

小谷野敦「ヌエのいた家」・・・1点

高橋弘希「指の骨」・・・9点

高尾長良「影媛」・・・3点



〈選評〉

・上田岳弘「惑星」

芥川賞の候補作らしからぬ(?)SF作品。文学の世界において扱いきれぬとされるSNSスマートフォン積極的に採用し、それを作品に絡めようとしたり、メタ的な要素も嫌味なく取り入れ極めて意欲的な作品であったといえる。特に、「未来」という時間軸を過去や現在と同列の時間軸として捉え、それまで盛んに行われていた過去への移行、記憶の往来などにとどまらない新しさを提示し得たように思う。しかし、設定やガジェットの部分において陳腐であったり(人類補完計画テーマ)、有効に活用できていないなど、技術的な面において粗さが目立ったとも言える。それゆえに芥川賞受賞には適さないと判断された。だが前述のように、方向性やその意欲的な部分においては将来有望であり、ここで芥川賞を取ってしまったら逆にダメ、との声も。受賞には至らずとも将来が楽しみな作家である。


小野正嗣「九年前の祈り」

ストーリーそのものや設定自体は使い古されたものであり、平凡。しかし、過去の時間と現在の時間、複数の時間軸を極めて丁寧かつ鮮やかに結びつけ重ねあわせて手腕は非凡である。内容の平凡さを感じさせない。その構成力は候補作中にとどまらず光るものがあった。幼児の比喩(「引き千切られたミミズ」)など、比喩・描写も巧みであり、小説としての技術の高さという点において傷のない作品であったと言える。シングルマザー、国際結婚など、かつてであれば嫌というほど掘り下げられたガジェットも、努めて客観的かつ「技術的」に描いていくことで、強く絡まってしまいかねない使い古された文脈=歴史をドライに切り離したといえるだろう。この作品の上手さ、巧みさは参加した会員の全員が認めるところであり、第2回の現代文学会芥川賞受賞と相成った。


小谷野敦「ヌエのいた家」

平凡な「私小説」。私小説そのものが悪いわけではないが、この作品の場合、父親に関するエピソードや自らの遍歴について語られるも、語られているだけ。内容も空疎極まりなく、それが暴いていく父子の類似性にはユーモアがあるが、結局それも細かな挿話を連続してゆくだけで、何のひねりもなく、強引な印象を受けるため、好みによって評価が別れる形となった。時系列がバラバラにエピソードが紹介されてゆくが、この手法についても意図や効果が感じられず、評価は低くとどまった。


・高橋弘希「指の骨」

この作品は一にも二にも描写力の高さが目立った。今にも倒れそうな兵士の行軍の様子、あるいは既に倒れてしまった兵士の様子。野戦病院の日常など、美しく、時にはグロテスクに描かれており、その描写力と、戦争に対する入念なリサーチは高く評価できる。々とした雰囲気や時折混ざるユーモアなども、若手作家の描く「争文学」と言え、それまでの戦争文学とは一線を画しているとも言えよう。しかし「焼き直し」といった感も否めない部分もあったりセンチメンタルに過ぎる場面もあったりと、意欲的である反面、傷も見られる作品であった。評価としては「九年前の祈り」と同等であったが合議の結果、今回は受賞を見送るという形になった。ただ、その描写力の高さゆえ、今後が楽しみな作家の一人であり、注目していきたいと思う。


・高尾長良「影媛」

日本書紀に登場するモチーフを基盤とし、古語と口語をミックスして描いた作品。単語や漢字、会話が古語で描かれており、入念な下調べが伺える作品ではある。しかし逆に言えば、それだけなのである。描写の鮮やかさなどが目立ちもするが、ストーリーや構成自体は陳腐そのもの。特に、呪術的行為を行える主人公が鳥になりそこからの視点を映すなど、視点移動の手付きも決して上手いとも、新しさがあるとも言えない。偏差値の高さが伺われこそすれ、小説の技巧的側面においては高い評価は与えられないという意見が出た。もしかして直木賞向きでは?との声も。


〈選考を終えて〉
今回の候補作は特別悪い作品があったわけでもなく、平均的にレベルが高かったように思う。また我々の選考した作品と築地で選考された作品が一致しており、受賞作についても文句なしと言ったところである。突き抜けた破天荒ではなく、描写や構成といった小説の技術的側面が丁寧に、かつ高レベルでまとまっていた。全体的に芥川賞「らしい」選考となったのではないだろうか。


(文責 清水)

第十九回文学フリマ結果報告

こんばんは。幹事長の佐藤です。このたび早稲田大学現代文学会Libreri22号、Libreri21号、ともに完売にはいたりませんでしたが、新刊に関して損失が全くでなかったので、みなさまに多大なる感謝をしたいと思います。ありがとうございました。また、次の号からは後輩たちの担当になります。どんな冊子になっていくか楽しみです。

Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その3

編集の佐藤です。ついにLibreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」の入稿が完了しました!

書影はこちら!

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真っ赤かです!

ちなみに、Bartlebyについての特集ではありません。あくまでも、“I would prefer not to”(できればしたくないのですが、しないほうがいいのですが)といった感じの作品を集めました。詳細はこちら!

 

サイズはB5版60頁6作品が掲載され、写真挿入2枚マットコート紙装丁(!)写真栞封入という豪華な内容となっております! Libreriは普段800円前後で売っておりますが、今回なんとたったの500円! 通常より300円安くなっております。

また、今回なんとあの伝説のLibreri21号「特集ー犬と猫」が帰ってきました!しかも、誤植訂正はもちろんのこと、判型をより大きくて見やすいB5版へと変え、デザインを変更、装丁も新たにマットコート紙へと変更、さらにはより多くの方に読んでいただくために前回よりも安く750円にて販売いたします。

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前回のLibreri21号の詳しい内容はこちら! □目次 □浜野喬士インタビュー

浜野喬士先生のインタビューは大変な人気を博した伝説的なものとなっており、Libreri21号は販売開始3時間で売り切れてしまった伝説の雑誌となっております。もう二度と再版する予定はないのでこれを機会にぜひどうぞ!

さらに!!セットで買っていただいた方には1200円で販売します!!!

また、例年通り、売り切りタイムセールもやっているので「文フリにあまりいられないかも」という方もこの機にぜひお願いします!

それでは会員一同、ブース:キ-18でみなさまを心待ちにしております!

第十九回文学フリマ参加ブースのお知らせ

すっかり公表が遅れてしまいました。当サークルのブースはキ–18です。2Fとなっておりますのでよろしくお願いします。

 

発行するLibreri22号についてはこちら⬇


Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その2 - 早稲田大学現代文学会公式サイト(部室は学生会館E515)

Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その2

みなさんご機嫌いかがですか?

予想以上に際どい原稿がたくさん集まって編集委員もわくわくして参りました。いよいよ原稿タイトルがすべて出揃ったので、文学フリマ当日に向けて掲載作品内容を紹介していきたいと思います。

 

ABOUT BARTLEBY : レポート

通常の英語では用いられない表現である‘I would prefer not to’という言葉を思想界に流行させた19世紀短編小説の傑作の一つであるBartleby, the scrivener: A story of the Bartleby(「代書人バートルビー ―ウォール街の物語」)に関する紹介記事。あらすじはもちろん、その成立過程や登場人物たちと作者メルヴィルの周囲との相応関係に言及する記事を紹介し、アメリカとフランスにおける簡単なバートルビー研究史をまとめる。これさえ読めば「代書人バートルビー」がもっと好きになります!

I AM GUNDAM  : エッセイ

「こんなエッセイできれば書きたくなかったのですが」(“I would prefer not to write such an essay”)と冒頭に走り書きされた精神分析ジャック・ラカン×ガンダム00のアニメ批評風エッセイ。主人公刹那が作中口走る「俺がガンダムだ」という台詞にラカンによるキルケゴール分析をオーバーラップさせることで導き出される「別の形の愛」について述べる。筆者曰く、「ガンダム00を見た我々は既に神の愛の何たるかを知っているのだ」。

NO FUTURE——WHY IS THERE NO FUTURE RATHER THAN NOTHING?             :書簡対談

Lee Edelman. No future : Queer Theory and the Death Driveを読んだ男からそれを薦めた人物への手紙と、その応答。その応答では、クィア・セオリーやクィア・スタディーズと呼ばれるある学問領域の混迷とした状況に戸惑いつつ言説が整理されていく。ジェンダー・スタディーズやクィアに興味がある人は必見! また、ペシミスティックに綴られた二人の「未来のなさ」への対決も注目。

LA MUSIQUE SAVANTE MANQUE À NOTRE DÉSIR                       :エッセイ

フォーク・ジャンボリー、そこには淡い青春があった。金はあるが毎朝を起きる時に何をすればいいのか分からない無気力で人を遠ざけがちな「僕」は数少ない友人の牧野からフォーク・ジャンボリーなるフォーク・ミュージックのイベントがあることを知らされる。そこで出会った広恵と「僕」は――。ゼロ年代的文体で1969-71年に3回行われたフォーク・ジャンボリーの伝説を回想する真実の偽史に青春は存在するのか? その目で確かめろ!

FOOTPRINTS : 小説

さる動物園にいる象、はな子。はな子に魅入られた「私」は日に日にはな子の妄想が行き過ぎるようになり、仕事をやめ、妻との関係が悪化していく。そんな時に「私」が決意したこととは……? 大正期文学を思わせる文体で綴られる一人の狂気が濡れきった死を艶やかに染め上げる。

KILL, DEATH, ASSIST : エッセイ

FPSにおける生死は全て数字の問題に回収される。殺せば数字になるし、殺されても数字になる」。筆者のFPSプレイで体験した四つのエピソードを収録。キャンパー狩り、グリッチャー討伐、ただキルレシオだけが上昇していく掃討戦。そして、すべてのFPS的行為を透徹な目線で貫く渇ききった文章がFPSの真実を暴き出す。本当の「ファントムバレット」を知りたければこれを読め!

 

いかがでしょうか?1つでもビビっときたものがあれば、ぜひ文学フリマ2F会場のブース:キ-18でお会いしましょう!

 

 

第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」報告

こんにちは。第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」は盛況のうちに終わりました。おこしになったみなさま、ありがとうございました。

また、以下に各発表の要旨を記載しますのでどうぞご笑覧ください。

 

◯喜田「たくまざる誘い——異種混淆性、石原慎太郎、ウタ」

石原慎太郎のそもそもアンソロジーである和漢朗詠集をさらにアンソロジーにするという滑稽な振る舞いをその滑稽さを意識せず行っているかのように行われることを論じた。滑稽さを意識していると思われないのは『新和漢朗詠集――現代に息づく日本人の鼓動』の「鼓動」に「ビート」というルビが振られていることにある。日本人の伝統文化の紹介をするにも関わらずあえて英語をする理由が同著を読んでも理解できないし、そもそも解説で紹介されている抜粋の数と実際の抜粋の数がズレているなど本としてのクオリティにも問題がある。これを次のような考察を挟むことで分析した。まず、異化作用とピーター・ブルックの言う茶化し(mokery)を参照にし、mokeryがカルチュラル・スタディーズでも注目されていることを示しつつ、そこにある均質性への批判の定型がもはや批判的効果が失効していることを示した。次に、均質性批判はある二項対立(独自性/均質性など)を一つの価値基準に回収させてしまう弱点があるが、それは石原慎太郎の「拙さ」によって別の分析の仕方がありえるのではないのかと示した。

 
◯佐藤「誰も詩を読まないーー井坂洋子について」
井坂洋子の詩集は『朝礼』(1979)と『地に落ちれば済む』(1991)の間に描写の対象が生(若さ)から死(老い)へと移って行ったとして論じる元来主調だった批評に対して、テマティスム的読解によってそもそも井坂洋子は水と肉体を換喩的に接続していくスタイルが根本にあり、切断することと孤独を描いていることが問題であると新たな解釈を示した(また、20世紀以後にそういう読解が可能になった詩の批評史にも簡単に触れた)。さらには、日本では「文学といえば?」という問いに対してほとんどの場合において詩人の名前が挙らないことを先行研究の少なさや参加者への問いかけを通じて示した。最後に日本では「文学」はいつから詩が消えたのか、そもそも詩は存在したのか、しえなかったとすれば一体われわれが今読んでいる詩と呼ばれるものは一体なんなのかなどといった研究テーマが残っていると示唆した。
 
◯片岡「正しく=よく聴かなければならないーー日本フォークのコンサート」
アメリカのフォークソングはとりわけカレッジ・フォークという形で日本に受容された。最初期のフォークソングは「立教大学といった小洒落た大学生」が弾くものであり、元来の意味付けを失ったまま登場したのだ。しかし、「我らの歌」(Folk Song)としてのフォークソングは関西の高石友也が自らフォークソングを翻訳して独自のものとしようとする運動を通じてしだいにその語本来の在り方になっていった。フォークソングはその当時、演奏者と観客の区別のなさが顕在化していた。つまり、観客は演奏者に対して「我らの歌」を求めることが当たり前だったのだ。実際、例えば岡林信康の初期の曲にある労働者の現実を歌った曲がフォークソングにおいて価値のあるものとされていた。その後、第3回フォーク・ジャンボリーの観客の暴徒化、朝6時までの討論会という失敗によってフォークブームは一端沈静化した。ここで画期となったのは70代以降フォークの完全なる商業主義化に伴う吉田拓郎の台頭である。彼はかぐや姫との共同コンサート「吉田拓郎かぐや姫 コンサートインつま恋」によって数万人規模の動員を成功させた。このコンサートはオールナイトというジャンボリー的歴史を引き継いでおり、ニューミュージック中心史観において軽んじられているが、フォーク史においてはその過去を再演しつつ別の形で表せたものとして評価すべきであると論じた。
 
◯山田「遊ぶ言葉ーーMCバトルという文化」
MCバトルというフリースタイルラップにおけるバトルの形式を紹介し、日本におけるMCバトル史を簡単に紹介した。次に、真代屋秀晃『韻が織り成す召喚魔法』と森田季節『ウタカイ』を紹介しながら言葉遊びの文化史をホイジンガやカイヨワを使って紹介し、その系譜に二冊のテーマを位置づけた。その後、そういった言葉遊びの本質には「パラドクス」という要素があることをロザリー・L・コリー、ウィリアウム・ウィルフォード、エウヘニオ・ドールスなどを用いて示し、遊び文化におけるパラドクスの重要性を解説した。また、ある遊びの中に出現する絶対的な秩序や遊びに見られる様々なパラドクスが取り上げた二冊に現れていることを示した。最後にはそういった遊びとパラドクスこそが革命的なものへと至る道筋を照らすとしてヒップホップ文化と革命が本来深くつながっていることを論じた。 
 
以上です。
第4回もお楽しみに。