2015年度新歓について
皆さんこんにちは!
いよいよ新歓の準備も始まってきましたね! 新入生の皆さんはどこのサークルに入るか見当をつけ始めているかもしれません。
というわけで、げんぶんの新歓情報についてここでお知らせします
げんぶんメーリス
新歓ブース
文芸サークル合同ブース
新歓勉強会・読書会の一覧
- 4月 6 日 (月) 「シュルレアリスム入門ーーそれって文学?」 (佐藤)
- 4 月 11 日 (土) 「政治哲学入門ーー英米倫理思想事始」 (平良)
- 4 月 14 日 (火) 「精神分析入門ーー何のための精神分析か」 (片岡)
- 4 月 16 日 (木) 「小説創作入門ーーゲンブン・ライティング・スクール・リブート」 (佐藤)
- 4 月 18 日 (土) 【読書会】円城塔『捧ぐ緑』を読む (佐藤)
- 4 月 21 日 (火) 「ロゴセラピー入門ーー人生の意味を問う心理学」 (赤木)
- 4 月 22 日 (水) 「小川洋子入門ーー二皿のあいまいな料理から」 (五十嵐)
- 4 月 25 日 (水) 「なぜ人間関係は存在しないのか?ーーレオ・ベルサーニと後期ラカン」 (片岡、喜田)
第2回現代文学会芥川賞受賞作――小野正嗣「九年前の祈り」
第152回芥川賞候補作は次の通りであった。併記されている数字
上田岳弘「惑星」・・・6点
小野正嗣「九年前の祈り」・・・9点
小谷野敦「ヌエのいた家」・・・1点
高橋弘希「指の骨」・・・9点
高尾長良「影媛」・・・3点
〈選評〉
・上田岳弘「惑星」
芥川賞の候補作らしからぬ(?)SF作品。文学の世界において扱
・小野正嗣「九年前の祈り」
ストーリーそのものや設定自体は使い古されたものであり、平凡。
・小谷野敦「ヌエのいた家」
平凡な「私小説」。私小説そのものが悪いわけではないが、この作
・高橋弘希「指の骨」
この作品は一にも二にも描写力の高さが目立った。今にも倒れそう
・高尾長良「影媛」
日本書紀に登場するモチーフを基盤とし、古語と口語をミックスし
〈選考を終えて〉
今回の候補作は特別悪い作品があったわけでもなく、平均的にレベ
(文責 清水)
第十九回文学フリマ結果報告
こんばんは。幹事長の佐藤です。このたび早稲田大学現代文学会Libreri22号、Libreri21号、ともに完売にはいたりませんでしたが、新刊に関して損失が全くでなかったので、みなさまに多大なる感謝をしたいと思います。ありがとうございました。また、次の号からは後輩たちの担当になります。どんな冊子になっていくか楽しみです。
Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その3
編集の佐藤です。ついにLibreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」の入稿が完了しました!
書影はこちら!
真っ赤かです!
ちなみに、Bartlebyについての特集ではありません。あくまでも、“I would prefer not to”(できればしたくないのですが、しないほうがいいのですが)といった感じの作品を集めました。詳細はこちら!
サイズはB5版、60頁6作品が掲載され、写真挿入2枚、マットコート紙装丁(!)、写真栞封入という豪華な内容となっております! Libreriは普段800円前後で売っておりますが、今回なんとたったの500円! 通常より300円安くなっております。
また、今回なんとあの伝説のLibreri21号「特集ー犬と猫」が帰ってきました!しかも、誤植訂正はもちろんのこと、判型をより大きくて見やすいB5版へと変え、デザインを変更、装丁も新たにマットコート紙へと変更、さらにはより多くの方に読んでいただくために前回よりも安く750円にて販売いたします。
前回のLibreri21号の詳しい内容はこちら! □目次 □浜野喬士インタビュー
浜野喬士先生のインタビューは大変な人気を博した伝説的なものとなっており、Libreri21号は販売開始3時間で売り切れてしまった伝説の雑誌となっております。もう二度と再版する予定はないのでこれを機会にぜひどうぞ!
さらに!!セットで買っていただいた方には1200円で販売します!!!
また、例年通り、売り切りタイムセールもやっているので「文フリにあまりいられないかも」という方もこの機にぜひお願いします!
それでは会員一同、ブース:キ-18でみなさまを心待ちにしております!
第十九回文学フリマ参加ブースのお知らせ
すっかり公表が遅れてしまいました。当サークルのブースはキ–18です。2Fとなっておりますのでよろしくお願いします。
発行するLibreri22号についてはこちら⬇
Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その2 - 早稲田大学現代文学会公式サイト(部室は学生会館E515)
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Libreri22号「I WOULD PREFER NOT TO」について 報告その2
みなさんご機嫌いかがですか?
予想以上に際どい原稿がたくさん集まって編集委員もわくわくして参りました。いよいよ原稿タイトルがすべて出揃ったので、文学フリマ当日に向けて掲載作品内容を紹介していきたいと思います。
・ABOUT BARTLEBY : レポート
通常の英語では用いられない表現である‘I would prefer not to’という言葉を思想界に流行させた19世紀短編小説の傑作の一つであるBartleby, the scrivener: A story of the Bartleby(「代書人バートルビー ―ウォール街の物語」)に関する紹介記事。あらすじはもちろん、その成立過程や登場人物たちと作者メルヴィルの周囲との相応関係に言及する記事を紹介し、アメリカとフランスにおける簡単なバートルビー研究史をまとめる。これさえ読めば「代書人バートルビー」がもっと好きになります!
・I AM GUNDAM : エッセイ
「こんなエッセイできれば書きたくなかったのですが」(“I would prefer not to write such an essay”)と冒頭に走り書きされた精神分析家ジャック・ラカン×ガンダム00のアニメ批評風エッセイ。主人公刹那が作中口走る「俺がガンダムだ」という台詞にラカンによるキルケゴール分析をオーバーラップさせることで導き出される「別の形の愛」について述べる。筆者曰く、「ガンダム00を見た我々は既に神の愛の何たるかを知っているのだ」。
・NO FUTURE——WHY IS THERE NO FUTURE RATHER THAN NOTHING? :書簡対談
Lee Edelman. No future : Queer Theory and the Death Driveを読んだ男からそれを薦めた人物への手紙と、その応答。その応答では、クィア・セオリーやクィア・スタディーズと呼ばれるある学問領域の混迷とした状況に戸惑いつつ言説が整理されていく。ジェンダー・スタディーズやクィアに興味がある人は必見! また、ペシミスティックに綴られた二人の「未来のなさ」への対決も注目。
・LA MUSIQUE SAVANTE MANQUE À NOTRE DÉSIR :エッセイ
フォーク・ジャンボリー、そこには淡い青春があった。金はあるが毎朝を起きる時に何をすればいいのか分からない無気力で人を遠ざけがちな「僕」は数少ない友人の牧野からフォーク・ジャンボリーなるフォーク・ミュージックのイベントがあることを知らされる。そこで出会った広恵と「僕」は――。ゼロ年代的文体で1969-71年に3回行われたフォーク・ジャンボリーの伝説を回想する真実の偽史に青春は存在するのか? その目で確かめろ!
・FOOTPRINTS : 小説
さる動物園にいる象、はな子。はな子に魅入られた「私」は日に日にはな子の妄想が行き過ぎるようになり、仕事をやめ、妻との関係が悪化していく。そんな時に「私」が決意したこととは……? 大正期文学を思わせる文体で綴られる一人の狂気が濡れきった死を艶やかに染め上げる。
・KILL, DEATH, ASSIST : エッセイ
「FPSにおける生死は全て数字の問題に回収される。殺せば数字になるし、殺されても数字になる」。筆者のFPSプレイで体験した四つのエピソードを収録。キャンパー狩り、グリッチャー討伐、ただキルレシオだけが上昇していく掃討戦。そして、すべてのFPS的行為を透徹な目線で貫く渇ききった文章がFPSの真実を暴き出す。本当の「ファントムバレット」を知りたければこれを読め!
いかがでしょうか?1つでもビビっときたものがあれば、ぜひ文学フリマ2F会場のブース:キ-18でお会いしましょう!
第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」報告
こんにちは。第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」は盛況のうちに終わりました。おこしになったみなさま、ありがとうございました。
また、以下に各発表の要旨を記載しますのでどうぞご笑覧ください。
◯喜田「たくまざる誘い——異種混淆性、石原慎太郎、ウタ」
石原慎太郎のそもそもアンソロジーである和漢朗詠集をさらにアンソロジーにするという滑稽な振る舞いをその滑稽さを意識せず行っているかのように行われることを論じた。滑稽さを意識していると思われないのは『新和漢朗詠集――現代に息づく日本人の鼓動』の「鼓動」に「ビート」というルビが振られていることにある。日本人の伝統文化の紹介をするにも関わらずあえて英語をする理由が同著を読んでも理解できないし、そもそも解説で紹介されている抜粋の数と実際の抜粋の数がズレているなど本としてのクオリティにも問題がある。これを次のような考察を挟むことで分析した。まず、異化作用とピーター・ブルックの言う茶化し(mokery)を参照にし、mokeryがカルチュラル・スタディーズでも注目されていることを示しつつ、そこにある均質性への批判の定型がもはや批判的効果が失効していることを示した。次に、均質性批判はある二項対立(独自性/均質性など)を一つの価値基準に回収させてしまう弱点があるが、それは石原慎太郎の「拙さ」によって別の分析の仕方がありえるのではないのかと示した。