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早稲田大学現代文学会公式サイト(部室は学生会館E515)

カテゴリにある「更新情報」の頁を参考にするとまとまった情報が手に入ります。

早稲田大学現代文学会とは?

About us
早稲田大学現代文学会(通称:げんぶん)の歴史は古く、日中戦争の頃から存在するという記録もあります。 主な活動は、読書会・勉強会、講演会の企画、機関誌の発行・販売の三つです。 しかし実際には、これだけではないのです。 部室でお喋りしてみたり、外でお酒を呑んだり、部室のパソコンをいじったり…… あなたのこうした活動全てが、げんぶんの活動にもなるのです。 つまり、あなたによって現文は変わっていくのです。
 
げんぶんは特定の色を持ってはいません。 会員一人一人が強烈な個性を持ち、その方向性は様々です。 文学一般・批評理論・哲学・思想・映画・音楽・演劇など、これらの他ジャンルが絡み合うところに関係が築かれていきます。 全く違うことをやっている人から多大な刺激を受けたり、方向が似た人と一緒に読書会を開いてみたり。 何よりも会員のみなさんが今一番やりたいこと、勉強したいことを支える場がここにはあります。
留学生の方も、大歓迎です。2013年度にはエストニアから来た留学生もいらっしゃいました。
 
そんなげんぶんですが、主な活動は三つあります。それぞれ説明します。
まず一つ目が、勉強会です。勉強会とは、日々の学問的関心から来る探求についての相談や結果報告です。大学に入ると様々な学問分野を勉強するようになります。その時、一人ではどうしても充分に解決できない場合があります。例えば自分のレポートや演習の発表のアイディアがうまく浮かばないときや、浮かんでいるけれど客観的に見てほしいときなど。そんなときに自分で開催して、会員がそれを助けるのが勉強会です。
 
次に、読書会です。げんぶんの読書会は他のサークルと少なからず違ったものとなっています。まず、普通の文芸サークルで は司会や開催者が意見を言うことが中心となっていますが、げんぶんでは参加者全員が参加する形式となっています。もちろん、全員参加といってもきちんとした意見を言うのではなくて、何でも良いから感想を言ってみよう、というものでハードルはとても低いものです。次に、普通の文芸サー クルでは論点を開催者が絞ってしまうのですが、この読書会では開催時にだんだんと論点が決まっ ていく形式をとっています。みんなの意見を司会が総合して議論の方向を定めていくのです。最後の三つ目ですが、それは結論が複数あるというものです。その理由は、この読書会の最大の目的は 一冊の本についてどれほどの読み方がありえるか、というのをきちんと提示していくことが大事だという方針があるからです。ただ「人それぞれの読み方がある」と言うのではないのがポイントです。議論の結果、参加者全員が認める複数の読み方を提出する、ということを重視しています。
 
勉強会、読書会という二つの活動の紹介を終えました。
最後に、三つ目の活動である講演会について説明します。
講演会は、会員が学問的な関心を持って講演会を企画して、その意図に沿った人物にお越し頂いて講演をしてもらうということです。
 
以上で主な活動についての説明を終わります。ちなみに、これらの活動の総合的な位置に機関誌「Mare」があります。年二回、文学フリマにて頒布しています。
 

ところで、サークルの名前に付けるには、「現代」という言葉はあまりにもいい加減であるように思えます。発足した昭和10年ごろから今まではとりあえず「現代」という範疇に収めてもいいでしょうが、今日の「現代」は絶対にいつの日か「現代」では決してありえなくなるのですから。例えば今から2000年が経ったとして、残された我々にとっての「現代」の何かしらのアーカイヴがあったとして、そこにまったく偶然にも「早稲田大学現代文学会」の名があったとして、それが解読できた我々とそんなに変わらない人間がいたとしたら、彼/彼女はきっとその名前に寒々しい気持ちがするに違いありません。恐ろしく古色蒼然としたものに大辞泉の言うところの「現在の時代。今の世。当世。」という名前がついているのですから。この名前は長く保存されることにはまったく向いていないと言わざるを得ないでしょう。

「現代」という言葉のいい加減さは、しかし、そのまま身動きの取りやすさにつながりもします。「現代」という言葉はそれを発する主体と結びつかなければ何も意味を成しません。ですから、大学サークルという性質上、世代交代が不可避であるげんぶんは、その都度その都度の集う人々の「現代」によって自在に変化することを名にし負う共同体であるわけです。それがおそらくある程度は実際に行われたから、ともかく現在のげんぶんがこのように現存するのでしょう。上の「主な活動」だって、この公式サイトが出来てからはほとんど同じですが、それは単なる偶然に過ぎません。ですから、この共同体に対しての私の望みは、それが存在することと言うより、それが生成することです。成長ではなく生成です。成功ではなく生成です。早稲田大学現代文学会は今幸いにも部室を有していますが、永く存在して欲しいのは、極言すれば、人が集まる場、それだけであると思います。

そのとりあえずの今、ここを表すものとして、私はあまりにもそれらしく、自分の携帯電話のメモ帳にあった、どこから引いたのかはっきりしないニーチェの一節を置いておきます。おそらくアガンベンの『開かれ』からの孫引きではないでしょうか。

 

  われわれは真理によって駄目になってしまわないために、芸術を持っているのだ。