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早稲田大学現代文学会公式サイト(部室は学生会館E515)

カテゴリにある「更新情報」の頁を参考にするとまとまった情報が手に入ります。

第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」報告

こんにちは。第3回シンポジウム「ものみなウタではじまる?」は盛況のうちに終わりました。おこしになったみなさま、ありがとうございました。

また、以下に各発表の要旨を記載しますのでどうぞご笑覧ください。

 

◯喜田「たくまざる誘い——異種混淆性、石原慎太郎、ウタ」

石原慎太郎のそもそもアンソロジーである和漢朗詠集をさらにアンソロジーにするという滑稽な振る舞いをその滑稽さを意識せず行っているかのように行われることを論じた。滑稽さを意識していると思われないのは『新和漢朗詠集――現代に息づく日本人の鼓動』の「鼓動」に「ビート」というルビが振られていることにある。日本人の伝統文化の紹介をするにも関わらずあえて英語をする理由が同著を読んでも理解できないし、そもそも解説で紹介されている抜粋の数と実際の抜粋の数がズレているなど本としてのクオリティにも問題がある。これを次のような考察を挟むことで分析した。まず、異化作用とピーター・ブルックの言う茶化し(mokery)を参照にし、mokeryがカルチュラル・スタディーズでも注目されていることを示しつつ、そこにある均質性への批判の定型がもはや批判的効果が失効していることを示した。次に、均質性批判はある二項対立(独自性/均質性など)を一つの価値基準に回収させてしまう弱点があるが、それは石原慎太郎の「拙さ」によって別の分析の仕方がありえるのではないのかと示した。

 
◯佐藤「誰も詩を読まないーー井坂洋子について」
井坂洋子の詩集は『朝礼』(1979)と『地に落ちれば済む』(1991)の間に描写の対象が生(若さ)から死(老い)へと移って行ったとして論じる元来主調だった批評に対して、テマティスム的読解によってそもそも井坂洋子は水と肉体を換喩的に接続していくスタイルが根本にあり、切断することと孤独を描いていることが問題であると新たな解釈を示した(また、20世紀以後にそういう読解が可能になった詩の批評史にも簡単に触れた)。さらには、日本では「文学といえば?」という問いに対してほとんどの場合において詩人の名前が挙らないことを先行研究の少なさや参加者への問いかけを通じて示した。最後に日本では「文学」はいつから詩が消えたのか、そもそも詩は存在したのか、しえなかったとすれば一体われわれが今読んでいる詩と呼ばれるものは一体なんなのかなどといった研究テーマが残っていると示唆した。
 
◯片岡「正しく=よく聴かなければならないーー日本フォークのコンサート」
アメリカのフォークソングはとりわけカレッジ・フォークという形で日本に受容された。最初期のフォークソングは「立教大学といった小洒落た大学生」が弾くものであり、元来の意味付けを失ったまま登場したのだ。しかし、「我らの歌」(Folk Song)としてのフォークソングは関西の高石友也が自らフォークソングを翻訳して独自のものとしようとする運動を通じてしだいにその語本来の在り方になっていった。フォークソングはその当時、演奏者と観客の区別のなさが顕在化していた。つまり、観客は演奏者に対して「我らの歌」を求めることが当たり前だったのだ。実際、例えば岡林信康の初期の曲にある労働者の現実を歌った曲がフォークソングにおいて価値のあるものとされていた。その後、第3回フォーク・ジャンボリーの観客の暴徒化、朝6時までの討論会という失敗によってフォークブームは一端沈静化した。ここで画期となったのは70代以降フォークの完全なる商業主義化に伴う吉田拓郎の台頭である。彼はかぐや姫との共同コンサート「吉田拓郎かぐや姫 コンサートインつま恋」によって数万人規模の動員を成功させた。このコンサートはオールナイトというジャンボリー的歴史を引き継いでおり、ニューミュージック中心史観において軽んじられているが、フォーク史においてはその過去を再演しつつ別の形で表せたものとして評価すべきであると論じた。
 
◯山田「遊ぶ言葉ーーMCバトルという文化」
MCバトルというフリースタイルラップにおけるバトルの形式を紹介し、日本におけるMCバトル史を簡単に紹介した。次に、真代屋秀晃『韻が織り成す召喚魔法』と森田季節『ウタカイ』を紹介しながら言葉遊びの文化史をホイジンガやカイヨワを使って紹介し、その系譜に二冊のテーマを位置づけた。その後、そういった言葉遊びの本質には「パラドクス」という要素があることをロザリー・L・コリー、ウィリアウム・ウィルフォード、エウヘニオ・ドールスなどを用いて示し、遊び文化におけるパラドクスの重要性を解説した。また、ある遊びの中に出現する絶対的な秩序や遊びに見られる様々なパラドクスが取り上げた二冊に現れていることを示した。最後にはそういった遊びとパラドクスこそが革命的なものへと至る道筋を照らすとしてヒップホップ文化と革命が本来深くつながっていることを論じた。 
 
以上です。
第4回もお楽しみに。