早稲田大学現代文学会 公式サイト

「更新情報」よりまとまった情報をご覧いただけます。

【Mare vol.5】序文――フラッシュ・クラッシュ

本記事はMare vol.5所収の「序文――フラッシュ・クラッシュ」の全文です。ブログに掲載するにあたって、一部表現を改めた箇所があります。

 

 今回、『Mare』vol.5のテーマは「アンチ・タイムライン」となった。本誌の編集長は中川から麻木に交代したが、本号のテーマは前号の中川による『Mare』vol.4の序文の一部、「タイムラインはフィクションだ」(p.17)に滲む気分を、幾らかひきずっている。そこで、我々は二人の名の下にこの序文を書いている。とはいえ、前号と今号のテーマが全く同じというわけでもない。以下で、我々の問題意識を述べてみる。


 例えば、Twitterにおいて、仕様変更がなされたとき、タイムライン上にその変更の形跡は一切残らない(理屈の上では、そのはずだ)。ある日突然「お気に入り」が消滅し、よく似た機能として「いいね」が追加されるだろう。「お気に入り」が消滅したという事実は、タイムラインのどこにも刻まれない。こんなツイートがあった。

これは車輪の再発明ではない。ここでは、車輪が消えるならば、それがかつて発明されたという事実ごと消えるのだから。


 上と同様にして、次の場合を考える。例えば、ログインしたアカウントの内容の一切が、仕様変更で書き換わっていたとする。投稿も、フォロワーも、タイムラインも、何もかもが見覚えのない何かになる。しかしそれでも、別のアカウントに「なったという事実はどこにも刻印されない。そもそも世界には何の変化も起こらない。変化が起こるためには、このような激変(それだけが現に在るものが変わるという)にもかかわらず、記憶をそのまま連れて行く、という不思議なことが起こる必要がある。[……]ところでしかし、これが、時間の場合に起こっていることなのである。われわれはいわば刻々と「あれがもとの私だ」「こいつがこれからの私になるのだ」と呟いているわけである」(永井均「Ⅲ 時計の針について」(ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』永井均 訳・注解と論評、2017年2月、講談社学術文庫)p.259)。永井の記述をこう読み換えたい。さながら、一つの呟きごとに別のアカウントに転生するようにして私というものが在るのだ、と。そして、内容を欠いた記憶が、いわば記憶なるものが成立するという事態こそが、空間の広がり、時間の流れに先立つようにしてあるのだ。 


 なぜ「アンチ・タイムライン」かといえば、我々は、この記憶なるものが成立するという事態そのものの、揺らぎを感受する、そう主張したいからである。ファンのあげる悲鳴のような音が突然途切れ、画面がブラックアウトするモニター。あるクラッシュを想定してみよう。確かに、むしろクラッシュは、身体の機能不全の方をこそ容易に想起させるだろう。しかし、クラッシュを、世界や、時間や、それに先立つはずの、この記憶なるものが成立するという事態の破綻として捉えることも、できるのではないか。/――私は、何らかの終わりを強調したいのではない。むしろ、この壊れこそが、ある根源的な変化という概念、変わらないものがないということの、証しとなるのではないか。/――私は、私の誕生を否定し、私を誕生させた世界を否定し、この世界の開闢を否定する私は、このクラッシュの瞬間こそが、開闢と終末の一致する点なのではないかと、問う。/――私のことなどはどうでもよい。クラッシュを、よいクラッシュを。世界のフラッシュ・クラッシュを。/――それでいいのか?/――私は/――私/――/……。


 このあたりで我々は、無数の私たちになって漂いはじめるのだが、つまるところ、ここまでがクラッシュした我々の限界であり、そして再起動によってただ一つの私が始まるのだ、ということであろう。

 
(麻木暁 + 中川大)