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芥川賞全レビュー公開企画第1回――田久保英夫「深い河」(第61回受賞作)

 五〇年代の芥川賞は奇蹟と言っていいのではないかと最近考えるようになっている。この年代の芥川賞作品は面白いものが多くその後に大作家となる人物がとりわけ多い。この作品もまたその期待を裏切らないものである。

 舞台は朝鮮戦争時代の佐世保から少し遠方にある米軍キャンプとその近くにある血清用の馬の面倒を見る小規模の牧場である。「僕」は要員としてアルバイトをする学生でずるずると労働期間を延長している。同僚の女大生大原順は気丈で「僕」は彼女を男のようにして接する。彼らを統括するのが獣医の松岡である。ある日、病気になった馬を見かけた地元の人間がその症状を伝貧病だと診断した。この病は非常に厄介で伝染力が強いために同じ牧舎にいる馬はほとんど毒牙にかかり、売り物にならなくなる。ところが松岡はその診断を撥ね付ける。採血をしてから彼は佐世保の病院に行くと言った。「僕」は不安になりながら帰りを待ったが、一向に帰ってこないことから松岡が出奔したのではないかと考える。そんななかで大原が松岡は次に払われるぶんだけの給与を残していたらしいという物証を発見していよいよその確信を強める。米軍キャンプで知り合った米兵も日本海という深い河Deep Riverを越えて戦争に行ってしまったので「僕」は軍から馬の処遇をどうするかの指示が出るまでその世話することにした。

 「僕」は残された大原と暮らしているうちに彼女の官能的な側面を自覚するようになる。その末に、組み立てベッドで隣り合って寝ているとき、ある夜この女に暴力をふるって犯してやりたいと思った。その刹那に大原は「ね。私を、乱暴したいと思ってるんでしょう」と「僕」に言い放つ。「僕」はなにもすることができず彼女の出自など聞くことにする。

 二人の仲は進展こそしないもののサクと呼ばれた一頭の純血馬を介してつながっていた。二人はサクのために他人の畑から飼い葉の原料を盗むまでするが、偶然立ち入った草原でサクを走らせていると地元の人間に見つかり、伝貧病の疑いがあった馬のいた舎屋の馬をなぜ殺処分しないのかと詰め寄る。主人公は苦心の末にサクを殺す。

 戦争においては二種類の人間がいる。殺す人間と殺さない人間である。「僕」の友人だった米兵は、殺さないでいる自分と半島で死闘の最中にいる仲間には深い河Deep Riverによって隔てがあるといって羞恥していたが、僕もついにその河を越えることになったわけだ。この小説はプロットが巧緻なまでに整理され、隙間の無い文章には読むことの快感すら生じるだろう。「僕」が戦争で殺す側に人間になる瞬間の描写などは圧巻であった。一読を薦める。(佐藤)