2013年度までの講演会まとめ
2013 年度講演会
講演者:松本卓也
芸術的な創造行為がどのように行われるかを精神医学・精神分析の知見を用いて論じる病跡学という学問があります。 そこでは、プラトン以来の伝統として、創造行為は狂気/真理の顕現として、 つまり創作者へのダイモーンの〈吹き込み〉が起こることによって可能になると理解されてきました。 この一種のプラトニズムは、ハイデガーからラカンにまで形を変えながら受け継がれてきました。
一方、ドゥルーズの作家論に注目してみると、彼は『批評と臨床』のなかで、 臨床的な「狂気」の周辺に位置する作家に接近しながら、彼らの作品を批評したわけですが、 ここでよく知られた「プラトニズムの転倒」が起こっています。ドゥルーズは真理の<吹き込み>に対して、 むしろ表層の言語を錯乱させる「手法」を創造性のオルタナティブな原理として位置付けているのです。 その代表例として、ルイス・キャロルが挙げられるでしょう。
創造性に関するこの2つの議論は、ハイデガーが論じたヘルダーリンが精神病(統合失調症)の圏内にあるのに対して、 キャロルがアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)の圏内にあることと鋭く対応しているように思えます。 特に、キャロルの作品は彼の独特の認知、あるいは器質的な特性から得られた「手法」に貫かれています。 本講演では、ラカンとドゥルーズの思想を導きの糸としながら、天才的な作家の創造性と病理の関係について一緒に考えてみましょう。
また、今年度は早稲田大学現代文学会では初めてとなる早稲田大学フランス語フランス文学コースとの共同開催であり、大学公式イベントと なっております。講演会企画時に私たちをご支援くださった同コース教授の鈴木雅雄先生には多大なる感謝を捧げます。
お時間ありましたら、みなさまぜひおいでください。
2011年度講演会
『日常の性と生とのクリティーク』
講演者:千葉雅也氏
私たちの「日常性=日常の性=日常の生」は、「危機的=批評的」な契機を迎えた。
3月11日の地震と、その後の原発問題を通して、〈情報論的パラダイム〉から〈生態論的パラダイム〉へ、 そして「インフラクリティーク」の方向へと、知の焦点が移りつつあることを、私たちは文字通り身をもって実感している。 あの未曾有の大災害は、「破壊的可塑性」を私たちに垣間見せる契機になった。私たちは、原子力発電所の崩壊と、 それに伴う電力や放射線などの問題を通して、インフラというものの在りかたや「人間の終わり」を、 アクチュアルに体感してしまった。
しかし、だからこそ、こうした出来事から、「震災」という特権的なトラウマの語りや、 コンテンツの管理やアーキテクチャの整備だけを視界に映す語りなどに安住するのではなく、 ポジティブな他者性を見出すクィアな軌跡をたどる思考を行えるようになりたい。
文化的・社会的に構築されると共に、実体的・物質的にも規定されてもいる、「性(sex,gender,sexuality)」と「生(life)」とを捉える批評のことばを、 特に「大衆的(pop)」なものについての語りに、どのように組み込んでいくべきなのか。
それを考えることは、一種の「日本論」にもなるだろう。
・《批評と哲学の「あいだ」で考えること》
・《今日「自然」や「非人間的なもの」についてどう考えるか
この2つをキーとして、講演は行われる。
2010年度講演会
『今ここでのスピノザ――来るべき共同体へのまなざし』
講演者:浅野俊哉氏
既存の共同体のあり方の変容が指摘されて久しい。共同体の構成員に平等に膾炙される超越的文脈なるものはその地位を完全に失墜した感すらある。
しかし、あくまでも我々が(一人では生きていけず)、社会として、共同体の一員としてしか生きていけないとするならば、我々は絶えずその内側から、共同体との関わり方を問い続けなければならない。
その壮大な問題にはこれまで以上の更に多くの言説が費やされなければならない。しかし、その回答への一つの提案としてスピノザの政治思想について考えるのは有意義なことだろう。スピノザは哲学者として汎神論を唱える一方で、政治と倫理の分離という問題と、権力について包括的な分析を行っていた。彼は国家がその構成員に規範的、道徳的な姿を強制するあり方の危険性に意識的であった。共同体と個々の構成員との矛盾の無いあり方を目指すスピノザの思想は、ネグリやドゥルーズの例を待つまでもなく、死後300年以上を経た現代でなおその意義を汲み尽くされてはいない。
2009年度講演会
『他者の衝撃と詩の変容――パウル・ツェラン/他者性の表象/不可能性としての詩――』
講演者:守中高明氏・福間具子氏
今、「詩とは何か」という問題が問われている。ただでさえ小説・絵画・映画など諸ジャンル間の垣根の崩壊が生じている現代において、「詩」と呼ばれるものの存在意義は限りなく曖昧模糊である。また、別の観点から見れば、現代詩の難解さが叫ばれ、特定の層にしか受容されないという状況にも陥っている。現代詩の意義が不明瞭になっているそこでは、端的に「詩には今、何ができるのか/できないのか」を問わなければならない。そしてそれは、今までの「詩」を見直す必要さえ含んでいる。私たちは今、「詩」を検討してみなければならない。
この壮大ともいえる問題に対して、ドイツの現代詩人、パウル・ツェランの研究から答えを探ることは、無益ではないだろう。ツェランの難解とも言われる詩は、「無」「沈黙」「非-言語」といった、いわば詩における「他者」の問題を問いかけている。ツェランに、そして言語に厳しく対峙するこの「他者」は、言語が言語でさえなくなる限界へ「詩」を導こうとする。他者性を言語でもって表象すること。そういったものとしてツェランの詩を検討することは、「詩とは何か」という問い、詩の可能性/不可能性の問題に向き合うことになるのである。
2008年度講演会
『虚構の美がせまってくる ―芸術のanalysis、創作のdynamics―』
講演者:清塚邦彦氏・諏訪哲史氏
芸術作品には何らかの価値があるとされています。その価値、つまり芸術的価値が何に由来するのかは、現在でも哲学のある分野では問題となっています。また創作者たちは、さらなる芸術的価値の高みを目指して創造を続けています。
今回私たちは、芸術作品の虚構性を考えることで、芸術的価値の探求を試みたいと思います。芸術的価値を「虚構の美」と捉えるとき、我々に要請されるものはなんなのか。ふだんから「虚構の美」との接近を経験しているであろう論者2人をお招きし、芸術作品がもたらすものについて、縦横に語っていただこうというのが、今回の講演会の趣旨です。
論者のお1人は、山形大学教授、清塚邦彦(きよづかくにひこ)氏。グライス『論理と会話』など言語哲学の重要文献の精力的な翻訳でも知られる清塚氏は、芸術作品の持つさまざまな性質について、フィクションという概念に着目し、分析を続けておられます。文学作品のみならず、絵画作品や写真作品の虚構性をも論じている氏の講演は、芸術作品の受容者すべてに、新鮮な驚きを与えてくれることでしょう。
もうお1人は、小説家、諏訪哲史(すわてつし)氏。『アサッテの人』で群像新人賞と芥川賞とをW受賞された諏訪氏の実験的にも見える作風は、多くの文学者に衝撃を与えたはずです。今回は、自らが優れた批評的読者でもある諏訪氏が、どのようにご自身の批評眼にかなう作品を執筆しておられるのか、その相克の現場からのお話をお願いしております。
分析美学者と小説家と、という取り合わせの講演会は、そう多くはありません。お2人には当日、相互の講演ののちに討論も行っていただく予定です。芸術作品について考えたことのある皆様のご来場を、現代文学会では心よりお待ちしております。
2007年度講演会
『文学と映像の相違点・交差点 ―原作からの読み、原作への読み』
講演者:塚田幸光氏・中垣恒太郎氏
一般に「原作もの」を鑑賞するとき、私たちは「原作どおり」とか「原作を超えた」とか、とかく原作を中心とした見方をしがちである。
しかし、「原作もの」の可能性はそれだけだろうか?
小説の映画化、漫画のアニメ化……「原作」をもつ作品が生み出されることを、私たちはごく当たり前のこととして受け止めている。しかし、「原作」との相違点や交差点を新たな視点から考察してみることで、「原作もの」からは、まったく別の意義を生み出すことができる。「原作もの」はじつはきわめて興味深い現象なのだ。
「原作もの」にまつわる諸問題を意識し、深く検討することで、文化の新たな可能性を拓くことができるのではないか。
本講演会では、こうしたテーマにさまざまなアプローチを取ってきた講演者とともに、作品を原作と絡めて論じる意義や、「原作もの」のよさとはどういうものなのか、などの論点について、以下のような作品を扱いながら考察する。
- トルーマン・カポーティ『冷血』(1966)
- リチャード・ブルックス監督『冷血』(1967)
- ベネット・ミラー監督『カポーティ』(2005)
- Douglas McGrath監督『Infamous』(2006)
2006年度講演会
『テクストと読者 ―<読み>の在り方を問い直す―』
講演者:高橋源一郎氏・望月哲男氏
現代における「読者」とはなにか。
価値観が多様化する現代社会の中では、文学テクストと読者の関係は一様ではなく、したがってこの問いに対する答えもまた、自明ではありえない。
言語学や社会学など、他分野の思想からの多大な影響を受け、現代の文学は大きく変容を遂げた。従来にない読みの視点を提供する現代批評理論の目覚しい進歩、多義的な解釈やテーマの不在を積極的に認めるポストモダン文学の隆盛など、文学テクストと読者の関係の揺らぎは今も加速し続けている。
以上のような文学の現状に対し、我々は現代の「読者」として、新しい立ち位置からの<読み>を求められているのではないだろうか。本講演会では高橋源一郎、望月哲男両氏を講演者に招き、これからの「読者」の在り方を考えていく。
2005年度講演会
『「戦争」が遺したもの ~“今”という地点、照射される“過去”~』
講演者:林 淑美氏・吉田 裕氏
ポツダム宣言を受諾し、日本が「終戦」を迎えてから実に六十年の歳月が流れた。その中で世代の移行が進むにつれ、戦争に対する関心は稀薄なものとなりつつある。
だが、ここで一つの疑問が浮かぶ。
「我々は本当に《戦争》を通過し終えたのか」という、至って素朴な問いかけである。
今、日本人の多くは直接に戦争を体験してはいない。だが、自らに直接の経験がないことを理由に戦争を意識の外に追いやってしまうことは、戦争で様々な傷を負った人々の存在までも忘却しようとする、極めて他者への視線を欠いた暴力的な態度に過ぎない。
直接の経験を持たぬ地点から、我々は戦争というものについて何を思考し、何を発話していくべきなのか。史実としての戦争のみならず、人々のイメージの中に存在する戦争、メディアや文化の中に立ち現れてくる戦争、それらを全て含む括弧付きの《戦争》に対して、聴講者全員が新しいパースペクティヴを獲得することを本講演会のねらいとしたい。
2004年度講演会
『「批評」の不/可能性 語られたこと 語られぬこと――語ること』
講演者:岡 真理氏・米谷匡史氏
今年度依頼した講演者たちはそれぞれ「客観的な史実・事実」のもつ暴力性に対して批判を加えている。
米谷匡史氏は、戦前・戦後の日本思想史を研究し、歴史の固定されたパースペクティブからこぼれ落ちてしまう言説の在り方を再検討しながら、今日的な現象への批判的介入を試みる。
だが、彼らも決して「客観的な史実・事実」のもつ暴力性に対して外在的な存在ではない。その二人が語ることも、そのような暴力性への加担からは逃れられないだろう。しかし、この講演会が自覚と緊張感を伴って行なわれ、一つの対話となるならば、それ以後にもつながっていく何らかの行為が立ち現れてくるのではないか。
2003年度講演会
『都市の隙間から―私たちはどこにいるのか?』
―私たちの暮らしている都市では今なにが起きているのだろうか?
「世界を語る」という言葉はとりもなおさず欺瞞である。
だから私たちは自らが取り囲まれている世界をせめて理解することから始めたい。
拡がる経済格差、典礼さながらに繰り返される民営化への礼賛、増える移民たち、生命保険会社の下で寝そべるホームレスたち、「数字」の獲得のためのメディア、商業に食いつぶされそうな芸術、閉ざされる教育機会…
日常のふとした瞬間に感じてしまうこれらの違和感をひとつのきっかけにしてそれらの点を線につなげる言葉はないものか?
そして、今、私たちはどこにいるのか?
その答えを見つけたい。
2002年度講演会
『変容する「読者」 溶解する「読書」
~それにしてもいったい誰が「読者」なのか~』
未曾有の出版不況が叫ばれる中「活字メディア」を取り巻く状況は大転換点を迎えている。インターネットの普及や電子書籍の出版等、多メディア化にともない、そもそも「読書」という概念もが変容しつつあるのだ。今回お呼びするお三方は、それぞれ異なる分野からこうした出版と読書に関する諸問題に対して積極的に発言している。出版業界が抱える問題とは?これからの読書はどうなるのか?それにしてもいったい誰が「読者」なのか?
2001年度講演会
『教えること、語ること -アカデミズムの外部から-』
「教える」という事態は、大塚、スガ両氏にとって決して自明ではない。
それは、彼らが「教える」ということを本業としていないからだ。
同時に研究職の再生産(=アカデミズム)に寄与することもない。
では、なぜ「教える」のか?
その行為は自らの「語り」とどのように関係を結ぶのか。
両氏は、「書くこと」を本業としていながらも、同時に「教えること」にもたずさわっている。では、彼らが著作のなかで語ってきたことと「教えること」とのあいだには、どのような関係が見出せるのだろうか。そして、彼らは「書くこと」のなかで、「教えること」についてどのように語ってきたのだろうか。彼らは「教える」という場面で、何を語っていこうとしているのだろうか。
おそらく、「教えること」を本業としている人間と比べて、彼らは「教えること」に対して自覚的であり、そこには自らの思想を表現する彼らの方法論が端的にあらわれるはずだ。言い換えれば、アカデミズムの外部に立っているからこそ見えてくるものが、彼らの「教えること」と「語ること」の間にはあるに違いない。 そしてそれを、私たちはどのようにして受けとめることができるのだろうか。
2000年度講演会
『小説家の閾(いき) ~ことばとことばの向こう~』
講演者:保坂和志氏
保坂和志氏は他領域との緊張関係を維持しつつ、小説家という位置にとどまることで「ことばの向こう」を志向し続ける。
一見何も起こらず、何も語っていない様に見える氏の小説世界であるが、ことばと世界とのせめぎ合いが絶えず続けられている。氏は次のように言う。
言葉は世界を包括できない。言葉は世界から生まれたのであって、世界が言葉から生まれたのではない。言語哲学や分析哲学はそれを認めようとしないけれど、言葉より先に世界は厳然としてあり続けてきた。
故に言語は世界の全てをあらわすことはできない。そして、人間は言語内でのみ物事を捉えているのでもない。
保坂氏は言葉ではあらわされてこなかったものを「小説家の閾」という境界線上において、言語化しようとする。彼はその作業を「別種のディスクールを準備すること」であると呼ぶ。