早稲田大学現代文学会 公式サイト

「更新情報」よりまとまった情報をご覧いただけます。

2017年度 新歓について兼勉強会計画

幹事長の紺野です。

現代文学会では半期を目処に月に一、二度のペースで勉強会を行い、初回をイントロダクションとして新歓に充てています。

現在開催が決まっている勉強会は安部公房勉強会、坂口安吾勉強会、バカSF勉強会、モダニズム勉強会、精神分析勉強会、『世にも奇妙な話』と『テレビ』の関係勉強会、カルト映画勉強会、カタルシス勉強会の八つです。何が現代文学だよ的な指摘は心に閉まって下さい。以下、現時点で集まっている勉強会についての紹介です。

 

カタルシス勉強会:「虚構とカタルシス--なぜ「たかがフィクション」に一喜一憂するのか」。 4/4@E521

担当:喜田

「この物語はフィクションである…」。皆さんは、このように始まる但し書きを、目にしたことはありませんか? これが示すところは明快に思えます。そう、現実とフィクションを混同されては困る、というものです。ところで、1933年にも、そんな風に、「紙上の夢と現実の出来事」を混同されては困る、というエッセイを新聞に発表した作家がいました。作家の名前は江戸川乱歩、題名は「探偵小説と瀉泄[ルビ:カタルシス]」…。この勉強会では、「カタルシス」という言葉の意味をたどりながら、現実とフィクションの関わり、フィクションの働きについて考えてみたいと思います。よろしくお願いします!

 

精神分析入門 ──何のための精神分析か──4/14 6限@E515
担当:片岡
精神分析、あるいはフロイトという言葉を聞いたことがある人は多いでしょう。多くの人は歴史の教 科書の中で目にしたという程度でしょうが、心理療法に興味のある人は、古く用いられていたが今で は廃れてしまった過去の精神療法だ、と言うかもしれません。ましてやフロイトの後継者のラカンに 関しては、名前も知らないという人が多いでしょうし、知っていたとしても現代思想の論客と思って いる人がほとんどでしょう。そのような状況の中で、現代の日本で精神分析を、それもラカン的精神 分析を実践するというお話しをすると目を丸くする人も多いかもしれません。精神分析が衰退した (と言われている)理由としては、現在は薬物療法認知行動療法などの発展によって、精神分析よ り安価かつスピーディに症状を治癒させることができるようになったという状況があります。いまや、 一回の面接に 5000 円から 1 万円も必要とし、週数回の面接を 10 年近くも続ける精神分析など不要に なった、と大勢の人が主張しています。しかしこれらの療法と精神分析を直接に比較することはでき ません。というのも、精神分析が目指すものとこれらの療法が目指すものは根本的に異なっているか らです。これらの療法が症状を「治す」ことを目的としているのに対して、精神分析は症状が治癒す るかどうかは二次的な問題とします。それでは、精神分析の一番の目的とは何か、つまり何のために 精神分析はあるのか――この勉強会では、そのことを皆さんにお伝えしたいと思います。

 

SF読書会 4/15 4限@E515

担当:藤原

「バカSF」と聞いて思い浮かぶものはありますか?私にとってのそれは、巨匠フレドリック・ウィリアム・ブラウンでした。初めて私が触れたSF「宇宙をぼくの手の上に」(中村保男訳/創元推理文庫/1969)、この…宇宙人はミッキーマウスを生み出し、石鹸が大いに売りさばかれ、不真面目な星が空をめぐる…すばらしい発想の海に沈むユーモアを共に楽しむ仲間をお待ちしております。
COME AND GO MAD.

(会では上記短編集の他「天使と宇宙船」等ブラウンの作品を読む予定です。新歓後は「バカSF」を切り口に他作者も読んでいきますのでどうぞよしなに)

 

極論エッセイストかつ娯楽小説家としての坂口安吾4/20 6限@E515

担当:津川
 みなさんは坂口安吾と聞いてなにを思いうかべるでしょうか? 高校で教わる文学史には「無頼派」のひとりとして紹介されています。また、多くの教科書に「文学のふるさと」が掲載されています。いずれも、文学研究者のメシの種でしかないような印象をあたえるかもしれません。
 結論から申し上げると、坂口安吾のエッセイは現代人が読んでも刺激的ですし、小説は現代人が読んでも娯楽小説として楽しめます。
 たとえば「日本文化私観」は、必要に応じて猿真似することや、歴史的遺物を取り壊すことも含めて、日本文化だと主張しています。また、『明治開花 安吾捕物帳』は2011年に『UN-GO』という名前でアニメ化されました。
 もちろん、アカデミズムの観点から解釈しがいのある作品も多いです。適宜、先行研究や私の解釈も紹介します。
 初回は、先ほどあげた「文学のふるさと」を取り上げます。こちらでコピーを用意し、その場で読む時間をもうけるので、前提知識なしでも大歓迎です。

 

モダニズム勉強会 4/21 6限@E515

担当:片倉
現在、作品の価値を評価するのに、「新しさ」が基準の一つとなることは少なくない。いやむしろ、そうでない場合の方が稀である。およそ、「新しさ」は誰にとっても疑いえない、普遍的な価値基準となっている、と断言しても語弊あるまい。
しかし、それは決して普遍的な尺度ではない。ある特殊な歴史的価値基準を、我々がそう見なしているだけのことである。
では、そのような地盤はいつ、いかにして形成されたのか。そして、どのように現在まで引き継がれてきたのか。それを問題とするのが、この勉強会の主眼である。
具体的には、その歴史的起源は19世紀(フランス)文学に求められる。従ってこの問題は、この時代に隆盛を極めた科学や、また逆に退潮を迎えた宗教ともクロスオーバーすることであろう。というよりも正確には、上述のような環境の中で初めて生まれたのが、「新しさ」をめぐる問題なのである。
そして次に、この問題の日本的展開を検討する。即ち、いわゆる「モダニズム」である。
日本モダニズムをどの角度から見ていくか、多岐に渡る問題の全てを見ていくことは不可能なので、それは参加者と相談して取捨選択したい。現時点で想定している切り口の一例を挙げれば、アヴァンギャルド、SF、映画、心理学(心霊学)、革命、などがある。作家としては谷崎潤一郎佐藤春夫川端康成横光利一その他。
前提知識があれば理解は容易だが、当然ながらその知識を身につけてもらうのも勉強会の目的の一つである。約言すれば、初学者も歓迎である。概要の一部にでも心惹かれた方は、覗いて頂ければ幸いである。

 

カルト映画勉強会:燃え盛るキリン4/25 6限@E515
担当:熊谷
70年代半ば、ベトナム帰りのタクシードライバーが、血に濡れた指でピストルの形を作った頃 を境に、ニューシネマは終焉を迎えた。以来一転して、アメリカには「ロッキー」や「スターウォー ズ」など、健全な娯楽作品が蔓延するようになっていく。 この時代の転換は、ニューシネマの源流となったベトナム戦争終結に要因を求められるが、 一方で映画史は、この転換において重要な役割を果たした燃え盛るキリンを片隅に追いやってい た。 数年前、二十年来の沈黙を経て、再び姿を現したこの醜怪な幻獣は、再び観客を熱病に犯し、 今度は映画史までをも蝕もうとしている。 勉強会では、この燃え盛るキリンの生態を観察するとともに、その行動パターンについての解 説、ひいては歴史への影響を考える。

 

安部公房勉強会 4/29 5限@E515
担当:紺野
友達同士が挨拶時に笑うのはその場にいない第三者を仮定して連帯感、つまり共犯意識を深めることの表明だそうです。情けない話ですが、安部公房の愛読者は集まるといつもニヤニヤしています。この時期の新入生は諸々不安で仕方がないと思います。安部公房を読み、さしあたり陳腐な連帯感を育みましょう。勿論、しっかり誰かを笑った後には自嘲と虚無感がやって来ます。話はそこからです。
初期の作品を半期に渡って読もうと思います。具体的には失踪三部作と呼ばれる『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』と、『箱男』です。今のところ主に作品内の弁証法の帰結やシュルレアリスムのオブジェの使われ方に焦点を当てて考えていくつもりです。
初回は短編の『なわ』を勉強会中に読んでもらって感想等を伺い、何かお話できたらと考えています。
のんびりとした怖くない会を予定かつ希望しておりますので是非気楽にお越しください。少なくとも『なわ』はこちらで用意しています。
鋭敏な方、常に居心地の悪いはぐれ気味の方は特にお待ちしております。

 

以上です。皆さんのご参加をお待ちしております。

 

 

 

西崎憲講演会「港・空港・駅としての文芸雑誌━出版オルタナティブの実践」

こんばんは、現代文学会です。

現代文学会が主催する講演会の詳細が決定しましたのでお知らせします!(講演会特設サイトも出来ましたので是非ご確認を↓)

タイトルは表題の通り、
西崎憲 講演会「港・空港・駅としての文芸雑誌━出版オルタナティブの実践」です。

西崎憲さんは、掲載作品今村夏子「あひる」が第155回芥川賞候補となるなど大躍進を見せている文学ムック『たべるのがおそい』の編集長でいらっしると同時に、ご自身でも作家や翻訳家として活動されたり、作曲・レーベルを手掛けたりもされている多才な方です。
そんな西崎さんにこの度は「出版オルタナティブ」という観点から『たべるのがおそい』について語っていただきます。請う御期待!!

日時:11/26 15:30~
場所:戸山キャンパス33号館16階第10会議室

協力:​早稲田大学文学学術院文芸・ジャーナリズム論系 松永美穂先生

講演会特設サイト:http://genbun2011.wixsite.com/genbun
西崎憲twitterアカウント:@ken_nishizaki
『たべるのがおそい』公式サイト:http://www.tabeoso.jp/

Mare vol.2掲載内容の紹介

皆さんこんにちは。入稿いたしました会誌「Mare vol.2」の掲載内容を公開します。

カバーはこちらのようになっております。
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こちらが目次となっております。

序文 津川仁志

インタビュー 堀千晶 お料理について お話しさせていただきます

評論 「お料理について お話しさせていただきます」について 佐藤正尚

小説 食べたって減るもんじゃなし 石井桔梗

評論 小川未明の宇宙的恐怖 ――「白い影」と感想文 木田知徳

小咄 ひとわらい 結谷智文

小説 暗渠 磯山煙

という感じです。目玉のインタビューに加え、評論と掌編小説がそろっております。ぜひお買い求めください。第二十二回文学フリマ東京「タ―41」でお待ちしております。

2016年度前期新歓企画について

 こんにちは、幹事長の五十嵐です。

 先日Twitterの公式アカウント(@genbun_e515)でなんとなくお知らせしてましたが、4月から行われます現代文学会2016年度前期新歓の企画の詳細が決まりました!当会らしく非常に多様な内容となっております。企画の内容に興味を持った方、サークルそのものに興味がある方、その日その時偶然暇な方、みなさんお気軽にご参加ください!

 読書会、勉強会はいずれも16:30から学生会館東棟5階E515の現代文学会部室において。レクリエーションの開始時刻と集合場所についてはそれぞれの詳細をご確認ください。日程は以下の通り。

4月7日(木) 読書会:カフカ「判決」
4月11日 (月)レクリエーション:名画座で映画を観てみよう!
4月13日 (水)読書会:安部公房「赤い繭」
4月17日 (日)レクリエーション:東京新歓遠足
4月20日 (水)勉強会:現代詩とは、なにモノか?-どこから来て、どこへ行くのか-
4月22日 (金)勉強会:メンズ・スタディーズ入門
4月30日(土) 読書会:ミュラーハムレットマシーン」
5月3日(火) 勉強会:現象学的心理学

 詳しい内容は以下の通りです。

4月7日(木)
読書会:カフカ「判決」

(担当:五十嵐遥也)

 あらゆる意味で20世紀を象徴する小説家フランツ・カフカ。掌編ばかり並んでいる極薄の処女作品集『観察』を経て、彼が1912年に初めて書き上げた短編小説がこの「判決」(Das Urteil)です。一晩で書き上げられたと伝えられるこの作品は、寓意的な題材とあまりにも謎めいた結末を具えており、作家の魅力を端的に感じることができます。バタイユベンヤミンドゥルーズ=ガタリなど名だたる人々の様々な読解にも関わらず未だに膨大な数の論評を毎年生み出すのがカフカの作品です。五十嵐は今回読書会を二つ企画しましたが、こちらは比較的――あくまで「比較的」ですが――気負わず読めるものとして用意しました。短い作品ですので、こちらで作品のコピーを印刷し、配ってその場でそれを読む形式にします。事前に読んでくる必要はありません。みなさんお気軽においで下さい。
 一応、以下に翻訳が収録されている文庫本を載せておきます。

池内紀訳『カフカ短篇集』(岩波文庫、1987年)
    『流刑地にて――カフカ・コレクション』(白水Uブックス、2006年)
丘沢静也訳『変身、掟の前で、他2篇』(光文社古典新訳文庫、2007年)
柴田翔訳『カフカ・セレクション〈2〉 運動・拘束』(ちくま文庫、2008年)
原文が読めるサイト:http://gutenberg.spiegel.de/buch/franz-kafka-erz-161/23


4月11日(月)
レクリエーション:名画座で映画を観てみよう!

(担当:中田雅人)

・時 あなたの好きな時間帯。詳しくは下記参照。
・参加費 1100~1300円(学生証を提示すれば1100円です)なお、当日の状況によって更に割引致します。詳しくは下記参照。
・集合場所 「早稲田松竹」前。詳しくは下記参照。
・内容 ジャン=リュック・ゴダール監督特集『男性・女性』(1966年、105分)『女と男のいる舗道』(1962年、85分)の二本立て。

 皆さんは映画をよく観ますか? もしそうなら「家で観る」派でしょうか、それとも「劇場で観る」派でしょうか。もちろん最新の話題作なら劇場に行く必要がありますが、定額料金さえ払えば映画だけでなく、海外ドラマや過去のアニメまで観放題というコンテンツが今は充実しているので映画館とは縁遠い人もいるかもしれません。それだけに、映画産業の一部は斜陽の一途を辿っています。シネコンや前述したサービスの台頭により、80~90年代の映画ブームを牽引してきた劇場が次々と潰れてしまいました。ただ現時点でまだ敢然として頑張ってくれているのが「名画座」という存在です。
 名画座というのは簡単に説明すると、少し前に上映が終わってしまったけどまだホットな映画、あるいは一つのテーマを決めて特集を組み、しかも割安で鑑賞できるタイプの劇場です。そして高田馬場には「早稲田松竹」という伝統ある劇場があります。ならばスクリーンで一度映画を「体感」してみようというお気楽なイベントでございます。「わざわざ行く」ではなく、ちょっとした「アトラクション」だと思ってなんとなく来てみてください!
 尚、本イベントは予告なく中止になる場合があります。ご了承ください。

【重要事項】:15:20開映『男性・女性』上映終了後の17:10~18:00にかけて、わたくし中田が劇場前にいます。お声をかけてくだされば、いくばくかの入場料を還元させていただきます。もしくは時間に余裕のある方等いらっしゃいましたら、その後懇親のための食事会等を予定しています(参加費はこちらが一部負担致します。おトクです)

目印→身長155㎝程度。右腕をギプスで吊っている
  →表紙が真っ赤な本を携帯(深い意味はなし)

なお、「早稲田松竹」は一般的な劇場とは異なる入場システムになっていますのでご留意ください。詳細情報やアクセスなどは、早稲田松竹の公式サイトhttp://www.wasedashochiku.co.jp/index.html
をご参照ください。

参加してみたい方は「早稲田大学現代文学会」宛に何らかの(公式サイトやツイッターでも何でも)事前連絡をしていただけると助かります。
もちろん飛び込みでも大歓迎です。


4月13日(水)
読書会:安部公房「赤い繭」

(担当:藤原歩)

 現代文学会は悲劇的な人員不足に陥っています。他にもサークルが多々ある中、何故あなたは来るのか??あるいは来ないのか???私はとにかく「赤い繭」を読みます。
 扱う資料は『壁』(安部公房著、昭和44年5月20日新潮社発行)です。この本は三部に分かれており、その三部目が今回扱う『赤い繭』です。これは、昭和25年に『三つの寓話』と題して発表された『赤い繭』『洪水』『魔法のチョーク』というこれまた三部の短編に『事業』を足したものになっています。なんだかややこしいですね。予定では『三つの寓話』の箇所を読もうと思っています。
 複数人での読書もまた面白いよ(ね)、というのと、持ち物は特に求めませんよ、というのと、文章は未読/既読問わず、というのを伝えておきます。私は期待の具現として刷ってきた小説「赤い繭」のコピーの中から一部を抜いてあなたに渡し、「ああ、これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。」私は司会としてあなたたちに感想を求め、それを書き出し、そしてまたあなたたちはそこから何かを見出すかもしれません。私はあなたを心から歓迎します。


4月17日(日)
レクリエーション:東京新歓遠足

(担当:佐藤正尚)

・時 13:00~16:00
・集合場所 学生会館1階ピアノ前
・予算 2000~3000円
・コース 原宿、明治神宮、新宿、早稲田大学
・備考 晩御飯を食べる会も開きます。早稲田大学の近くで済ませます。

 現代文学会は新歓に際してお花見読書会などの試みを行ってきましたが、今年は都内の有名な場所を新入生の皆さんと巡る遠足を行いたいと思います。早稲田大学は様々な郷土からお越しになられた方が多く、こういった機会が学生生活をより充実させる助けになれば、と思っています。現代文学会に興味がある方はもちろん、先輩に学生生活のことを聞きたい、都内の様子を知りたいという方もどうぞお越しになってください。


4月20日(水)
勉強会:現代詩とは、なにモノか?-どこから来て、どこへ行くのか-

(担当:平良章吾)

 詩は何の中から発見されるのか。岩波文庫谷川俊太郎詩集の中に書いてある文字列?スカイツリーの宣伝文句?いや、エクリチュールに限らず、きれいに調和したもの言わぬ風景を見つめ続けていると、何やら語りかけてくるものを感じる。目にうつる全てのことは(詩的な)メッセージ、だといえるかもしれない。
 現代詩(とりわけ今回は戦後詩)とは、あまたある詩の中の一分野である。今回の勉強会では、現代詩の発生のあらましや、それの衰退について発表する予定です。あわせて、(現代)詩のハウツー、つまり鑑賞の仕方についても考察を行うつもりです。予備知識としては、現代詩とは、主に日本語を用いて、戦後以降に書かれた詩であると乱暴に解釈して来て頂いて差し支え無いです。以下はプログラムです。

0.はじめに-現代詩とはなにモノか?-
1.現代詩の成立、あるいは伝統からの断絶
2.現代詩の「終焉」をめぐって
3.すべてがコピーになる-なにが詩で、なにが詩でないのか-
4.Welcome to the desert of GENDAI-SHI
5.おわりに-現代詩とはなに?モノか?-
補.国内詩と海外詩
 以上、予定。


4月22日(金)
勉強会:メンズ・スタディーズ入門

(担当:津川仁志)

 新入生のかたはこれからの大学生活のなかで一度ぐらいはフェミニズムにふれるとおもいます。ではマスキュリニズムはどうでしょうか? 「ジェンダーは身体的な性別に付与された知」であるならば、「女性身体に付与された知」とおなじく「男性身体に付与された知」も研究対象になるべきではないでしょうか?
 伊藤公雄を嚆矢として「男性学」をなのる研究者は日本にも何人かいますが、「フェミニズム」「ジェンダー」「クィア」のように大学で講義が設置されることはおろか、男性という集団を学術的対象としてあつかうための学会すら日本には存在しないのが現状です。女性運動やLGBT運動にくらべて男性運動が日本では活発ではないことが理由として考えられますが、「運動がないから学問がなく、学問がないから運動がない」という悪循環に陥っているとも言えます。
 この勉強会では、男性研究について日本語でかかれたふたつの論文を私の関心にそくして紹介、解説します。フェミニズムジェンダークィアに興味があるかたもこれからの勉学において参考になるはずですので、ご参加いただければとおもいます。 


4月30日(土)
読書会:ミュラーハムレットマシーン」
             
(担当:五十嵐遥也)

 ドイツにおいてブレヒトと並び称される劇作家ハイナー・ミュラーが、戦後東ドイツでシェイクスピアの『ハムレット』を演出した結果産み出してしまった「何か」が上演不可能な戯曲「ハムレットマシーン」(Die Hamletmaschine)です。原文にして数ページ、邦訳でも大きめの活字で12ページくらいしかない作品ですが、当時の世界の状況、『ハムレット』の構成要素、その他諸々が濃密に絡み合いたいへん圧倒的なテキストとなっております。まともに筋立てて読むことははっきり言って無理です。みなさんといっしょに文章の中を彷徨うような体験が出来ればと思っています。攻撃力のある文章に飢えている方はぜひお越しください。
 何せ短い作品なので、こちらで作品のコピーを印刷し、配ってその場で読む形式にします。事前に当該作品を読んでくる必要はありませんが、シェイクスピアの『ハムレット』の内容を把握しておくといいかもしれません。
 一応、翻訳の載っている書籍を紹介しておきます。

岩淵達治、谷川道子訳『ハムレットマシーン:シェイクスピア・ファクトリー』(未来社、1992年)


5月3日(火)
勉強会:現象学的心理学

(担当:赤木裕昭)
 
 この勉強会では、フッサール現象学を心理学との関係で扱います。
 現象学は20世紀はじめにフッサールが提唱し、その後ハイデガーサルトルメルロ=ポンティデリダなど多くの哲学者に影響を与えた現代思想の大きな一つの原点になっている哲学です。学問としての現象学は、学問一般の基礎づけという役割を担っており、化学や心理学といった経験科学と横並びに成立している学問ではありません。
 このような現象学は、本質学でありまた同時に超越論的な学でもあるという2点で経験科学とは異なっているものであり、この二つの学の性質を獲得する作業がそれぞれ超越論的還元と形相的還元です。
 現象学のこうした基本的な考え方を明らかにした上で、後半では再度現象学と経験科学との関係を問い直します。
 現象学は本質学として事実学である経験科学の基礎となるものであり、科学の基礎を問い直す必要がある場合には現象学的な考え方が必要になります。この本質学としての現象学が経験科学に対してどのような貢献を成し得るのかを、精神病理学的現象学を提唱した精神医学者であるビンスワンガーの論文を手掛かりに考えます。


 以上です。みなさんどうぞお出でください!
 ブースの情報などはまた後日連絡します。

Mare掲載内容の紹介

皆さんこんにちは。今回は新会誌「Mare」の完全な掲載内容を公開したいと思います!

カバーはこちらのようになっております。

 

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 *表紙で用いられている図版は以下のパブリックドメインの雑誌から採用されています。J.BOYER,« La lumière colorée et les plantes », La Nature,  n°1828-1853, 1908, p.304. なお、この雑誌を公開しているCNUM(Conservatoire national des arts et métiers)から公式に販売に伴う図版の使用許可をいただいております。また、この写真を無断で転載することはCnumの図版使用ガイドラインに抵触する恐れがありますのでお気をつけください。

 

こちらが目次となっております。

序文「その小汚い前足をどけろ。」 結谷智文
1.対談 仲山ひふみ×佐藤正尚「言葉を中華鍋で焼く」
2.小説「転覆」 磯山煙
3.評論「『内面形式』とは何の謂か——横光利一とテクスト解釈」 片倉直弥
4.小説「すぅ、」 中田雅人
5.インタビュー 菊地浩平「人形を見る 人形が見る」
6.小説「落下」 石井桔梗
7.研究ノート「フランスにおける新しいドラクエ4コマ研究のためのカイエ」 村松亮一郎

 

という感じです。目玉の対談・インタビューに加え、評論、研究ノートがあり、今回は小説も多めとなっております。ぜひお買い求めください。文学フリマカ-53」でお待ちしております。

新雑誌「Mare」頒布のお知らせ

皆さんこんにちは!

 

今回は11/23の文フリで頒布予定の当会会誌、「Mare」に関してのお知らせです!

今回のテーマは「Heartless」となっており、心がないということや、そうした事態についての小説、論考、批評などを掲載する予定です。雑誌の性格としては、基本的にLibreriを引き継いだものとなっております。

また、今回は創刊号ということで2つの豪華インタビューも収録させていただくことになりました!

1つめは、美術・音楽・哲学など、幅広いジャンルで活躍されている仲山ひふみさんと当会会員が、思弁的実在論と文学についてお話しさせていただきました。

2つめ、人形劇及び人形に関するもの全般の研究者であり、早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系助教授の菊地浩平先生に、人形と人間との関わりについてお聞きしました。

というわけで非常に充実の内容となっております。当日、2階Fホールのカ-53にてお求めください。試し読みも歓迎いたします。

また、個々の作品、論考の詳細については後日お知らせしますので続報をお待ちください!

2015年度後期新歓についてのお知らせ

こんにちは。幹事長の片岡です。

現代文学会では4月だけでなく後期にも会員による新歓勉強会・読書会を毎週行います。下記の日程で、場所は学生会館の E515(部室)で行います。参加は事前連絡不要ですので、ご自由に!  勉強会後には、軽い食事会があるかもしれませ ん。 

 

新歓活動日程

10月 13 日(火) 14:45-16:30

読書会「ボルヘス「八岐の園」」(五十嵐)

現代文学会では短編作品を中心として読書会を不定期で行っています。現代文学会の読書会と他の文芸サークルの大きな違いはそのゲーム的な形式性にあります。どんな感想を言っても必ずうまく話が連続するように整えられたこの読書会というゲームに参加するだけで、1人では決して得ることのできない読書体験を得ることができます。本を面白く読むということがどういうことかを感じたい方はぜひ私たちと一緒に読書会をしてみませんか? ちなみにこの取り上げる作品は非常に短いので読んでこなくともその場で配布もします。お気軽にいらっしゃってください。

今回扱うのはボルヘス「八岐の園」鼓直訳『伝奇集』(岩波文庫)所収)です。ラテンアメリカ文学の代表的作家の一人(魔術的リアリズムではないらしい)ボルヘスの作品です。第一次大戦中を舞台にしたミステリ仕立ての物語がいくらか形而上に滑り入りながら20pに凝集されています。コピーも何部かは用意しますが、『伝奇集』は手元に置いておいて損のない本だと思います。本屋の岩波文の赤のコーナーの一番端っこの方を探せば大体あります。 


10月 17 日(土) 16:30-18:00

バルザックの『人間喜劇』における『哲学的研究』について」(平良) 

バルザックは、主に18世紀末に生まれ、19世紀半ばまで活動していたフランスの作家です。その人物像は、常に借金取りに追い立てられていたとか、大変な大食らいであったとか、様々に伝えられていますが、ともかく多くの作品を残しました。
バルザックは、自身の作品群を「人間喜劇」と呼び、時には登場人物を再登場させたりして、一つの大きな体系を作りました。
そしてその「人間喜劇」は、バルザックによれば3つのカテゴリーに分割されます。すなわち、「風俗研究」、「哲学的研究」、「分析的研究」です。
今回の勉強会では「哲学的研究」にフォーカスを当て、バルザックが探究した「哲学」とは何を指していたのかということを、(「哲学的探究」の一作品である)『セラフィタ』を主に取り上げて論じます。
ちなみに勉強会で言及する作品については当日あらすじを説明するので、特に前知識は必要ないです。
それでは、よろしくお願いします。

  

11月 2日(月) 16:30-18:00

「肝臓は文字の上で慄へるか ――文学におけるリアリティ――」(片倉)

文学においてリアリティが軽視できない要素であることは、今更繰り返すまでもあるまい。だがしかし、それではリアリティとは何の謂いなのか。それは必ずしも自明ではない。例えばリアリティの不足を意味する「人間が描けていない」という言葉の意味について共通了解を取ることの困難を思えばそれは決して突飛な意見ではなかろう。

「人間が描けていない」、或いは「真実味がない」といった批判は、(決してそれに限定されるわけではないが、少なくとも)明治大正の日本近代文学における常套句といっても差し支えなかろう。では、批判者らがそこでいう真実味や人間、換言すればリアリティとは如何様なものであろうか。それは必ずしも判然としない。抽象的な言辞を弄するにもかかわらず、彼らはそれを詳論することはしないのである。一見すると厳然たる基準に裏打ちされたかに見えるこれらのクリシェは、それゆえむしろ甚だ場当たり的なものに他ならなかった。文芸批評の場においてこのような言葉を振り回し曖昧な「リアリティ」を求めた当時の大家には、リアリティを巡る体系的な文学論が欠けていたのである。

1920年代に興隆したプロレタリア文学、そして新感覚派は、作品を評価する確固とした理念を有しているという点で紛れもなく上に述べたような既存の文学とは一線を画したものであった。今回はそのうち後者、新感覚派を主に取り上げる。

話の中心となるのは、プロレタリア文学と勢力を二分した新感覚派、就中その棟梁格であった誰あろう横光利一である。プロレタリア文学に対抗して独自の文学論の建設を目指し世に謂う形式主義文学論争で「形式とは文字の羅列である」なる有名な発言をした横光は、文芸作品の価値を、つまりはリアリティを単なる印象ではなく作品の構成要素である文字に遡って考えた点で疑う余地なく体系的な文学論を構想していた一人といえよう。尤も、残念ながらそれは横光一流の言葉遣いのため必ずしも正当に評価されてきたわけではない。横光の思考を見直すことを通じて、一筋縄では理解しにくい概念であるリアリティとの一つの向き合い方を披露出来れば幸いである。


 他にもあるかも……続報を待て!