早稲田大学現代文学会 公式サイト

「更新情報」よりまとまった情報をご覧いただけます。

Mare掲載内容の紹介

皆さんこんにちは。今回は新会誌「Mare」の完全な掲載内容を公開したいと思います!

カバーはこちらのようになっております。

 

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 *表紙で用いられている図版は以下のパブリックドメインの雑誌から採用されています。J.BOYER,« La lumière colorée et les plantes », La Nature,  n°1828-1853, 1908, p.304. なお、この雑誌を公開しているCNUM(Conservatoire national des arts et métiers)から公式に販売に伴う図版の使用許可をいただいております。また、この写真を無断で転載することはCnumの図版使用ガイドラインに抵触する恐れがありますのでお気をつけください。

 

こちらが目次となっております。

序文「その小汚い前足をどけろ。」 結谷智文
1.対談 仲山ひふみ×佐藤正尚「言葉を中華鍋で焼く」
2.小説「転覆」 磯山煙
3.評論「『内面形式』とは何の謂か——横光利一とテクスト解釈」 片倉直弥
4.小説「すぅ、」 中田雅人
5.インタビュー 菊地浩平「人形を見る 人形が見る」
6.小説「落下」 石井桔梗
7.研究ノート「フランスにおける新しいドラクエ4コマ研究のためのカイエ」 村松亮一郎

 

という感じです。目玉の対談・インタビューに加え、評論、研究ノートがあり、今回は小説も多めとなっております。ぜひお買い求めください。文学フリマカ-53」でお待ちしております。

新雑誌「Mare」頒布のお知らせ

皆さんこんにちは!

 

今回は11/23の文フリで頒布予定の当会会誌、「Mare」に関してのお知らせです!

今回のテーマは「Heartless」となっており、心がないということや、そうした事態についての小説、論考、批評などを掲載する予定です。雑誌の性格としては、基本的にLibreriを引き継いだものとなっております。

また、今回は創刊号ということで2つの豪華インタビューも収録させていただくことになりました!

1つめは、美術・音楽・哲学など、幅広いジャンルで活躍されている仲山ひふみさんと当会会員が、思弁的実在論と文学についてお話しさせていただきました。

2つめ、人形劇及び人形に関するもの全般の研究者であり、早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系助教授の菊地浩平先生に、人形と人間との関わりについてお聞きしました。

というわけで非常に充実の内容となっております。当日、2階Fホールのカ-53にてお求めください。試し読みも歓迎いたします。

また、個々の作品、論考の詳細については後日お知らせしますので続報をお待ちください!

2015年度後期新歓についてのお知らせ

こんにちは。幹事長の片岡です。

現代文学会では4月だけでなく後期にも会員による新歓勉強会・読書会を毎週行います。下記の日程で、場所は学生会館の E515(部室)で行います。参加は事前連絡不要ですので、ご自由に!  勉強会後には、軽い食事会があるかもしれませ ん。 

 

新歓活動日程

10月 13 日(火) 14:45-16:30

読書会「ボルヘス「八岐の園」」(五十嵐)

現代文学会では短編作品を中心として読書会を不定期で行っています。現代文学会の読書会と他の文芸サークルの大きな違いはそのゲーム的な形式性にあります。どんな感想を言っても必ずうまく話が連続するように整えられたこの読書会というゲームに参加するだけで、1人では決して得ることのできない読書体験を得ることができます。本を面白く読むということがどういうことかを感じたい方はぜひ私たちと一緒に読書会をしてみませんか? ちなみにこの取り上げる作品は非常に短いので読んでこなくともその場で配布もします。お気軽にいらっしゃってください。

今回扱うのはボルヘス「八岐の園」鼓直訳『伝奇集』(岩波文庫)所収)です。ラテンアメリカ文学の代表的作家の一人(魔術的リアリズムではないらしい)ボルヘスの作品です。第一次大戦中を舞台にしたミステリ仕立ての物語がいくらか形而上に滑り入りながら20pに凝集されています。コピーも何部かは用意しますが、『伝奇集』は手元に置いておいて損のない本だと思います。本屋の岩波文の赤のコーナーの一番端っこの方を探せば大体あります。 


10月 17 日(土) 16:30-18:00

バルザックの『人間喜劇』における『哲学的研究』について」(平良) 

バルザックは、主に18世紀末に生まれ、19世紀半ばまで活動していたフランスの作家です。その人物像は、常に借金取りに追い立てられていたとか、大変な大食らいであったとか、様々に伝えられていますが、ともかく多くの作品を残しました。
バルザックは、自身の作品群を「人間喜劇」と呼び、時には登場人物を再登場させたりして、一つの大きな体系を作りました。
そしてその「人間喜劇」は、バルザックによれば3つのカテゴリーに分割されます。すなわち、「風俗研究」、「哲学的研究」、「分析的研究」です。
今回の勉強会では「哲学的研究」にフォーカスを当て、バルザックが探究した「哲学」とは何を指していたのかということを、(「哲学的探究」の一作品である)『セラフィタ』を主に取り上げて論じます。
ちなみに勉強会で言及する作品については当日あらすじを説明するので、特に前知識は必要ないです。
それでは、よろしくお願いします。

  

11月 2日(月) 16:30-18:00

「肝臓は文字の上で慄へるか ――文学におけるリアリティ――」(片倉)

文学においてリアリティが軽視できない要素であることは、今更繰り返すまでもあるまい。だがしかし、それではリアリティとは何の謂いなのか。それは必ずしも自明ではない。例えばリアリティの不足を意味する「人間が描けていない」という言葉の意味について共通了解を取ることの困難を思えばそれは決して突飛な意見ではなかろう。

「人間が描けていない」、或いは「真実味がない」といった批判は、(決してそれに限定されるわけではないが、少なくとも)明治大正の日本近代文学における常套句といっても差し支えなかろう。では、批判者らがそこでいう真実味や人間、換言すればリアリティとは如何様なものであろうか。それは必ずしも判然としない。抽象的な言辞を弄するにもかかわらず、彼らはそれを詳論することはしないのである。一見すると厳然たる基準に裏打ちされたかに見えるこれらのクリシェは、それゆえむしろ甚だ場当たり的なものに他ならなかった。文芸批評の場においてこのような言葉を振り回し曖昧な「リアリティ」を求めた当時の大家には、リアリティを巡る体系的な文学論が欠けていたのである。

1920年代に興隆したプロレタリア文学、そして新感覚派は、作品を評価する確固とした理念を有しているという点で紛れもなく上に述べたような既存の文学とは一線を画したものであった。今回はそのうち後者、新感覚派を主に取り上げる。

話の中心となるのは、プロレタリア文学と勢力を二分した新感覚派、就中その棟梁格であった誰あろう横光利一である。プロレタリア文学に対抗して独自の文学論の建設を目指し世に謂う形式主義文学論争で「形式とは文字の羅列である」なる有名な発言をした横光は、文芸作品の価値を、つまりはリアリティを単なる印象ではなく作品の構成要素である文字に遡って考えた点で疑う余地なく体系的な文学論を構想していた一人といえよう。尤も、残念ながらそれは横光一流の言葉遣いのため必ずしも正当に評価されてきたわけではない。横光の思考を見直すことを通じて、一筋縄では理解しにくい概念であるリアリティとの一つの向き合い方を披露出来れば幸いである。


 他にもあるかも……続報を待て!

2015年度前期新歓勉強会について

こんにちは。幹事長の片岡です。新歓ブースにお越し頂いた方にも同じ内容の書かれた紙を配布しますが、お時間などとれない方のために今後の新歓活動の日程と詳しい内容を記しておきました。お気になったところにぜひお越し下さい。

まず前提として、会員による新歓勉強会・読書会が毎週行われます。下記の日程で、学生会館の E515(部室)で14:45〜18:00に行います。参加は事前連絡不要ですので、ご自由に!  勉強会後には、軽い食事会があるかもしれませ ん。 また、4月27日(月)18:30からは、新歓コンパが開催されます。新歓コンパについての詳細は、新歓メールリストや Twitter、 このブログにて後日告知されます。

 

新歓活動日程

4 月 6 日(月)「シュルレアリスム入門──それって文学?」(佐藤)

シュルレアリスムが何なのかを知らなくとも、『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』や『ナジャ』といった本を知っている人がいるかもしれません。シュルレアリスムとは、その二冊の本を書いたアンドレ・ブルトンという人を中心にして始められた文学運動です。ところで、このシュルレアリスムという文学運動は本邦では長らく誤解されてきました。それは、例えばシュルレアリスム絵画展が開かれるばかりにシュルレアリスムは絵画の運動のものであると思うとか、澁澤龍彦巌谷國士の本を読んだためにある種のアングラなサブカルのような印象を受けるといったものです。しかし、1980年代以降フランスでもシュルレアリスム研究は大きく進み、その成果に接した本大学教授である鈴木雅雄によってこの10年間で日本でのシュルレアリスム研究も格段の進歩を遂げ、このようなものの多くが思い込みにすぎないことが知られるようになってきました。この発表では、その研究の一端を噛み砕いて説明することで、シュルレアリスムの面白さを伝えたいと思います。そして、文学に関心のある方に、今までとはかけ離れた文学像を知ることで新たな文学との付き合い方をお見せできればと思っています。

 

4 月 11 日(土)「政治哲学入門──英米倫理思想事始」(平良) 

「人を助けるのに理由が必要か」──近年よく論じられることの多いこのようなありふれた問いに対して、あなたならどのように答えるだろうか。
 例えば、川で溺れている人がいたとしよう。ある人は、その人を助けるのに理由なんていらない、なぜならそんなことはよく考えればわかる常識だから、と答えるかもしれない。そして一方では、何かしらの見返りを心の内に期待して救助をする人もいるかもしれない。
 多くの英米圏の思想家たちは、このような倫理的(道徳的)な問いと長く格闘してきた。上記のものをはじめとして、様々な倫理的立場は彼らによって類型を与えられ、そして発展・進化してきたのである。
 この勉強会では、時代の新しい倫理理論を開拓していった思想家たちを紹介しつつ、主に英米圏の倫理思想の潮流を概説することを目的としている。時間の関係上、もしも説明を省きすぎた部分があれば、質問等に応じて適宜補足もするつもりである。
 勉強会を通じて、自分が抱く道徳的立場がどのように思想史の中で生み出され、また後の時代では乗り越えられるべき課題として考えられてきたのかを自覚してもらうことが目標である。

  

4 月 14 日(火)「精神分析入門──何のための精神分析か」(片岡)

精神分析、あるいはフロイトという言葉を聞いたことがある人は多いでしょう。多くの人は歴史の授業や教科書の中で目にしたという程度でしょうが、心理療法に興味のある人は、古く用いられていたが今では廃れてしまった過去の精神療法だ、と言うかもしれません。ましてやフロイトの後継者のラカンに関しては、名前も知らないという人が多いでしょうし、知っていたとしても現代思想の論客と思っている人がほとんどでしょう。そのような状況の中で、現代の日本で精神分析を、それもラカン精神分析を実践するというお話しをすると目を丸くする人も多いかもしれません。精神分析が衰退した(と言われている)理由としては、現在は薬物療法認知行動療法などの発展によって、精神分析より安価かつスピーディに症状を治癒させることができるようになったという状況があります。いまや、一回の面接に5000円から1万円も必要とし、週数回の面接を10年近くも続ける精神分析など不要になった、と思う人も多いことでしょう。しかしこれらの療法と精神分析を直接に比較することはできません。というのも、精神分析が目指すものとこれらの療法が目指すものは根本的に異なっているからです。これらの療法が症状を「治す」ことを目的としているのに対して、精神分析は症状が治癒するかどうかは二次的な問題とします。それでは、精神分析の一番の目的とは何か、つまり何のために精神分析はあるのか──この勉強会では、そのことを皆さんにお伝えしたいと思います。

 

 4 月 16日(木)「小説創作入門──ゲンブン・ライティング・スクール・リブート」(佐藤)

昨年の8月下旬から4回に渡って「ゲンブン・ライティング・スクール」と題し第25回早稲田文学新人賞投稿を目指して勉強会を行ってきました。結局のところ応募するところまで行き着いたのは本勉強会を開催した私1名でしたが、その作品は無事に一次予選を通過することができました。そこで、前回の勉強会のレジュメをみなさんに配布し、勉強会では何を行ったのかを振り返りながら、実際の創作に際して考えられる諸問題を改めて取り上げます。そして、「小説を書くことについて考えること」とは一体どういうことなのかを実作に興味のあるみなさんと考えたいと思います。これから小説を書こうとしている方やこれまで書いてきた人、あるいはすでに単行本を出している方も、ぜひお越しください。

 

4 月 18 日(土)読書会「円城塔『捧ぐ緑』を読む」(佐藤)

現代文学会では短編作品を中心として読書会を不定期で行っています。現代文学会の読書会と他の文芸サークルの大きな違いはそのゲーム的な形式性にあります。どんな感想を言っても必ずうまく話が連続するように整えられたこの読書会というゲームに参加するだけで、1人では決して得ることのできない読書体験を得ることができます。本を面白く読むということがどういうことかを感じたい方はぜひ私たちと一緒に読書会をしてみませんか? ちなみにこの取り上げる作品は非常に短いので読んでこなくともその場で配布もします。お気軽にいらっしゃってください。
(取り扱う作品の書誌情報は以下のとおり。円城塔『バナナ剥きには最適の日々』、ハヤカワ文庫、2014年、pp.119 - 137

 

 4 月 21 日(火)「ロゴセラピー入門──人生の意味を扱う心理学」(赤木)

皆さんは充実した毎日を送っているでしょうか?もしそうであるならそれでいいのですが、そうでない方もいるかもしれません。大学生になって途端に増えた時間をどう使えばいいか分からない、受験で落ちたとか失恋とかで絶望した気分である人もいるかもしれません。そうした人たちは自分を生き生きとさせてくれるような価値や意味を見いだせない状態にあると思います。今回私が紹介するロゴセラピーというのは、そうした私たちにとってもっとも日常的な問題、すなわち人生における意味の問題を中心にすえた心理学の理論です。この理論は別名で実存分析とも呼ばれ、フランクルによって創始されました。フランクルは「夜と霧」という本で第二次世界大戦での強制収容所での体験を描いたことでも世界的に有名であり、知っている人もいるのではないでしょうか。学問的にはフランクルはマックスシェーラーなどの実存哲学、フロイトに始まる深層心理学から大きく影響を受けており、実存分析はその20世紀前半の二大思想の一つの到達点ともいえます。今回の勉強会ではそのフランクルの簡単な紹介、ロゴセラピーの他学派への位置づけ、またその理論における主要な概念を説明します。

 

 4 月 22 日(水)「小川洋子入門──二皿のあいまいな料理から」(五十嵐)

現代文学会のOBの一人に、小説家の小川洋子さんがいます。彼女の作品は、代表作とされる『博士の愛した数式』をはじめ独特の魅力を持って、日本のみならず、翻訳されて欧米の人々にも多く読まれています(フランスで映画化された作品もあります)。しかし、それにも関わらず、彼女の作品のあの独特さを的を射て分析した事例は未だ少ないように思われます。「何を言う、分析など興ざめだ。そのわからなさこそ小川洋子作品の魅力。」と言う方もいらっしゃるかもしれません。そしてそれはある部分的な意味では当たってもいます。一冊の本を手に取った時、それをどう読むかは読者の自由です。ですが、思考停止は避けるべきではないでしょうか。この読者会では、小川洋子作品の全体的な傾向を提案し、そこから具体的に大切な要素である「食事」、ひいては「料理」へと狭めて行くことでそれを確認して行く、というふうにして小川洋子の作品を能動的に「読む」作業を行っていきたいと思います(※多少変わる場合があります)。際して特に準備は必要ありませんが、小川洋子作品
に少しでも触れて来ていただけるとより理解が深まるのではないかと思います。勉強会では『妊娠カレンダー』、『お料理教室』(短編集『まぶた』所収)、『人質の朗読会』第五夜の「コンソメスープ名人」あたりを取り扱う予定です。

 

4 月 25 日(土)「なぜ人間関係は存在しないのか──レオ・ベルサーニと後期ラカン」(片岡、喜田)

私たちの身の回りは人間関係で溢れています。町を歩けば無数の人に出会いますし、食事ひとつするにも店員に交渉しなければなりません。また現在はツイッターなどを初めとしたSNSの発展によって、私たちは恋人から見知らぬ人まで、絶えず様々な人たちとコミュニケーションを取り続けています。そうですから、「人間関係は存在しない」などと言っても意味不明だと思われるでしょう。しかし、そもそも人間関係とは何でしょうか。例えばレストランの店員とは、ある利益関係(客は食事をし、店員は労働から賃金を得る)に基づく契約よって結びついているだけで、真の人間関係とは言えないと人は思うでしょう。しかしそうであればカップルにおいても、彼らは恋愛という一定の利益関係に基づく契約に基づいているだけだとは言えないでしょうか。一見もっとも充溢した人間関係と思われる恋人関係ですが、それすら本当に成立していると言えるのでしょうか──。

かつて精神分析家のジャック・ラカンは、以上のような事態を「性関係なるものはない」という一言によって捉えようとしました。またクィア理論家のレオ・ベルサーニは「自己破砕的で独我論的な享楽」や「非人称的ナルシシズム」などを論じて、個々の異なった人格を互いに尊重する関係性こそが平和で望ましい、といった通念を問い直す思想を展開しています。両者とも、いわゆる通常思われているような「人間関係」なるものに対する挑戦が見て取れます。この対談ではラカン精神分析を専門とする片岡と、ベルサーニの理論を参照しながら日本文学研究を行う喜田が、両者の思想をベースとして、さまざまな分野について語りつくそうというものです。君はそれでも人間関係があることを証明できるか!?

 

 

※「精神分析入門──何のための精神分析か」、「ロゴセラピー入門──人生の意味を扱う心理学」、「なぜ人間関係は存在しないのか──レオ・ベルサーニと後期ラカン」は戸山フロイト研究会合同勉強会となっています。戸山フロイト研究会について訊ねたいことがあればtwitterアカウント@freudtoyamaをご覧になってリプライを飛ばしてください。

2015年度新歓について

皆さんこんにちは! 

いよいよ新歓の準備も始まってきましたね! 新入生の皆さんはどこのサークルに入るか見当をつけ始めているかもしれません。

 

というわけで、げんぶんの新歓情報についてここでお知らせします

 

げんぶんメーリス

現代文学会のメーリングリストに参加することで、 最新の新歓情報をいつでも受け取ることができます。 参加は幹事長まで。 

新歓ブース

現代文学会は屋外のブースでの説明も予定しております。興味のある方は足をお運びください。
 
場所は早稲田キャンパス11号館前(ブース番号:156)です。日時は以下の通り。
 
4月1日(水)10:00~16:00
 
4月2日(木)10:00~16:00
 
4月3日(金)10:00~15:00

文芸サークル合同ブース

早稲田大学内の文芸系サークルがいくつか合同でブースを出します!
 
日時と会場は以下の通り。
 
4月2日(木)12:00~16:30 会場:学生会館W506

新歓勉強会・読書会の一覧

新歓で行われる勉強会は下記の通りとなっています。開催時刻はすべて14:45〜18:00、場所は部室(E515)となっています。詳しい概要はこちらをご覧ください。          
  • 4月    6 日 (月) 「シュルレアリスム入門ーーそれって文学?」 (佐藤)
  • 4 月 11 日 (土) 「政治哲学入門ーー英米倫理思想事始」 (平良)
  • 4 月 14 日 (火) 「精神分析入門ーー何のための精神分析か」 (片岡) 
  • 4 月 16 日 (木) 「小説創作入門ーーゲンブン・ライティング・スクール・リブート」 (佐藤)
  • 4 月 18 日 (土) 【読書会】円城塔『捧ぐ緑』を読む (佐藤)
  • 4 月 21 日 (火) 「ロゴセラピー入門ーー人生の意味を問う心理学」 (赤木)
  • 4 月 22 日 (水) 「小川洋子入門ーー二皿のあいまいな料理から」 (五十嵐)
  • 4 月 25 日 (水) 「なぜ人間関係は存在しないのか?ーーレオ・ベルサーニと後期ラカン」 (片岡、喜田)

第2回現代文学会芥川賞受賞作――小野正嗣「九年前の祈り」

第152回芥川賞候補作は次の通りであった。併記されている数字は採点結果である。(12点満点中 採点方式は◎3点、◯2点、△1点、×0点)

 
上田岳弘「惑星」・・・6点

小野正嗣「九年前の祈り」・・・9点

小谷野敦「ヌエのいた家」・・・1点

高橋弘希「指の骨」・・・9点

高尾長良「影媛」・・・3点



〈選評〉

・上田岳弘「惑星」

芥川賞の候補作らしからぬ(?)SF作品。文学の世界において扱いきれぬとされるSNSスマートフォン積極的に採用し、それを作品に絡めようとしたり、メタ的な要素も嫌味なく取り入れ極めて意欲的な作品であったといえる。特に、「未来」という時間軸を過去や現在と同列の時間軸として捉え、それまで盛んに行われていた過去への移行、記憶の往来などにとどまらない新しさを提示し得たように思う。しかし、設定やガジェットの部分において陳腐であったり(人類補完計画テーマ)、有効に活用できていないなど、技術的な面において粗さが目立ったとも言える。それゆえに芥川賞受賞には適さないと判断された。だが前述のように、方向性やその意欲的な部分においては将来有望であり、ここで芥川賞を取ってしまったら逆にダメ、との声も。受賞には至らずとも将来が楽しみな作家である。


小野正嗣「九年前の祈り」

ストーリーそのものや設定自体は使い古されたものであり、平凡。しかし、過去の時間と現在の時間、複数の時間軸を極めて丁寧かつ鮮やかに結びつけ重ねあわせて手腕は非凡である。内容の平凡さを感じさせない。その構成力は候補作中にとどまらず光るものがあった。幼児の比喩(「引き千切られたミミズ」)など、比喩・描写も巧みであり、小説としての技術の高さという点において傷のない作品であったと言える。シングルマザー、国際結婚など、かつてであれば嫌というほど掘り下げられたガジェットも、努めて客観的かつ「技術的」に描いていくことで、強く絡まってしまいかねない使い古された文脈=歴史をドライに切り離したといえるだろう。この作品の上手さ、巧みさは参加した会員の全員が認めるところであり、第2回の現代文学会芥川賞受賞と相成った。


小谷野敦「ヌエのいた家」

平凡な「私小説」。私小説そのものが悪いわけではないが、この作品の場合、父親に関するエピソードや自らの遍歴について語られるも、語られているだけ。内容も空疎極まりなく、それが暴いていく父子の類似性にはユーモアがあるが、結局それも細かな挿話を連続してゆくだけで、何のひねりもなく、強引な印象を受けるため、好みによって評価が別れる形となった。時系列がバラバラにエピソードが紹介されてゆくが、この手法についても意図や効果が感じられず、評価は低くとどまった。


・高橋弘希「指の骨」

この作品は一にも二にも描写力の高さが目立った。今にも倒れそうな兵士の行軍の様子、あるいは既に倒れてしまった兵士の様子。野戦病院の日常など、美しく、時にはグロテスクに描かれており、その描写力と、戦争に対する入念なリサーチは高く評価できる。々とした雰囲気や時折混ざるユーモアなども、若手作家の描く「争文学」と言え、それまでの戦争文学とは一線を画しているとも言えよう。しかし「焼き直し」といった感も否めない部分もあったりセンチメンタルに過ぎる場面もあったりと、意欲的である反面、傷も見られる作品であった。評価としては「九年前の祈り」と同等であったが合議の結果、今回は受賞を見送るという形になった。ただ、その描写力の高さゆえ、今後が楽しみな作家の一人であり、注目していきたいと思う。


・高尾長良「影媛」

日本書紀に登場するモチーフを基盤とし、古語と口語をミックスして描いた作品。単語や漢字、会話が古語で描かれており、入念な下調べが伺える作品ではある。しかし逆に言えば、それだけなのである。描写の鮮やかさなどが目立ちもするが、ストーリーや構成自体は陳腐そのもの。特に、呪術的行為を行える主人公が鳥になりそこからの視点を映すなど、視点移動の手付きも決して上手いとも、新しさがあるとも言えない。偏差値の高さが伺われこそすれ、小説の技巧的側面においては高い評価は与えられないという意見が出た。もしかして直木賞向きでは?との声も。


〈選考を終えて〉
今回の候補作は特別悪い作品があったわけでもなく、平均的にレベルが高かったように思う。また我々の選考した作品と築地で選考された作品が一致しており、受賞作についても文句なしと言ったところである。突き抜けた破天荒ではなく、描写や構成といった小説の技術的側面が丁寧に、かつ高レベルでまとまっていた。全体的に芥川賞「らしい」選考となったのではないだろうか。


(文責 清水)

第十九回文学フリマ結果報告

こんばんは。幹事長の佐藤です。このたび早稲田大学現代文学会Libreri22号、Libreri21号、ともに完売にはいたりませんでしたが、新刊に関して損失が全くでなかったので、みなさまに多大なる感謝をしたいと思います。ありがとうございました。また、次の号からは後輩たちの担当になります。どんな冊子になっていくか楽しみです。